☆第二章 第一節 「ロシア大使館」

 真夏。
 真っ赤な骨格を真昼の太陽光線に晒している東南東の道標。
 ここはアマンドがある六本木交差点。
 東京タワーに向かって歩けばいいんだよ、簡単だろ。藁夫がそう言ったっけ。
 歩くのは簡単だ。方位磁石だって持っている。だけど冷房のきいた地下鉄の駅から出ると、この暑さだものなぁ。俺は北緯40度の男なんだからさ、勘弁してくれよ。
 そもそもシモーヌのお父さんが勤めているのがロシア大使館だったのがことの起こりだ。
 今日の大規模な設宴の準備を手伝ったら後でいろいろご馳走にあずかれるというのだから、これを見逃す手はないってことだ。
 しかたなく炎天下をてくてく歩く。これがリスボンだったらな、夏だって爽やかな海風がさらっと吹いてて、こんなに辛くないのになぁ。
 ふと見上げた東京タワーの方から、黒い影がまっしぐらに飛んでくる。ななな、なんだ?
 風切り羽根が耳をかすめた次の瞬間、頭巾をかぶった鳩が現れた。頭巾は東京都認定防災頭巾。
「私の名は森山鳩実」
 鳩の名なのかそれは?
「大地震が来ます」
 野生の本能ってやつかも? でも何故鳩がしゃべるんだ? 暑さで俺がおかしくなったのか?
 鳩が飛び去ったその瞬間、震度25の直下型大地震が麻布狸穴町を襲った。
 俺とロシア大使館との間に地割れが走る。
 その向こうでシモーヌが叫ぶのが見えた、
「空は晴れたしホイオバQ!悩みはないしホイオバQ!」
 強いストレスを受けるとオバQ音頭を歌って心の平衡を保とうとするのが、彼女の幼い頃からの癖だ。しかし37にもなってオバQ音頭か。しかも全然歌になってない。
「心ウキウキ!おつむも軽いよ!」
 気が違ってるようにしか見えないよ、シモーヌ。全くなんて日なんだ。鳩は喋る、シモーヌは歌う、震度25の地震には襲われる…地震?
 ちょっと待てよ。前にもこんなことがあったっけ?
 えーっと、それって何時だ? ええと・・・あーもぅ! シモーヌ、少し黙っててくれないか! オバQ音頭が頭の中でグルグル回って落ち着いてなにも考えられないじゃないか。
 たしかもうすぐ飯倉片町のはずだが、おかしいな、飯倉片町で外苑東通りと交差しているはずの首都高速都心環状線がいつまで経っても見えないぞ。大地震で倒壊しちゃったんだろうか。シモーヌのオバQ音頭につられて俺まで
「キュッ・キュッ・キュッ」
 と口ずさみながら、飯倉片町の交差点、らしき場所にはたどり着いた。だが、首都高速のかけらも見つからない。
 剥き出しの鉄骨、ひっくり返って腹を見せる自動車、充満する焦げ臭いニオイ。これはヒドい有様だ。
 100mほど先に人だかりができている。ピルっ…ポロっ…と聞こえてくる叫び声にひかれて近づいてみた。
「ピロシキっ!ボルシチ!出来立てよ、食べて食べて」
 ロシア大使館が、震災被災者に緊急の炊出しを行っているようだ。
「どうだね、ワリーヤ同志。食糧は足りていにすかや?」
「あ、これはヒョードリ書記官、お戯れはおやめになってください。それよりここで炊き出しの支援を行っていただけないでしょうか。」
 どうやらヒョードリ書記官はワリーヤ同志に顎で使われる状況にいるらしい。彼らはどんな関係なのか?
 そんなことよりボルシチだ。
 うまそうな匂いが俺の胃袋を直撃した。いったいいつから食べていないのだろう。余震が断続的に起きている中を、瓦礫をかき分けて大鍋に向かって歩いて鍋をのぞき込んでみた。
 鍋には蝸牛が入っていた。エスカルゴか、フランス大使館からの差し入れだろう。ほかにも力うどん、マドレーヌ、大根おろし、等懐かしい面々が顔をのぞかせる。懐かしさに浸っている間もなく、俺はボルシチを鍋からすくい取り、食べ始めた。
「うまい」。
 久しぶりの食事だからだろうか。
 一心不乱に食べていると、何かが歯の奥に、いや、奧歯に当たるものがある。
 舌でころがし、指でひっぱり出して見ると、それは麻の美だった。
 いつもならプチプチ噛んでしまうんだが、なぜかそいつを噛み潰してはいかんように思い、鍋の蓋の上に置いて、またボルシチを食べ続けた。
 ようやく腹の虫が治まったところで、ふと気が付くと、テーブルの向こうにワリーヤを連れたヒョードリが立っていて、
「森山鳩美は君達の何だ」
 と尋ねた。

☆第二章 第二節 「出会い」

 ヒョードリの問いかけに俺は答えられずにいた。
 それが解れば苦労しない、と思いながらも答えを探すために、俺はこれまで起きたことを頭の中で思い巡らせていた。
 と、突然縦揺れの余震が来た。今度は震度9.91ぐらいだろうか。
 足元をすくわれた俺は、炊き出しのボルシチの鍋の縁に頭をぶつけて気を失った。
 どれくらい時間がたっただろうか、目覚めると全く異なる視界が広がっていた。
 隣にはヒョードリもいる。麻の実もある。この風景は、まるで六本木とは思えない。いったいここはどこなんだ。
 頭をさわると大きなコブができている。視界がぶれているのは頭痛のせいか?余震のせいか?ヒョードリも二人三人いるように見える。麻の実も二つ三つ、、いやそこらじゅう麻の実だらけだ。
 視界のぶれが治まった後、俺に見えたのは大麻の林だった。
 俺は最初に目についた麻の実をポケットにいれた。ヒョードリは麻の実を踏みしめて俺に迫ってきた。俺のポケットがバリバリと破れ何かが転がり落ちた。麻の実だ。人間の頭くらいの大きさに膨らんでいる。
「あたしの名は大麻麻美(37歳)」
 麻の実が喋った。よく見るとそれは本当に人間の頭だった。
「たいまあさみ?」
「おおあさ(37歳)よっ」
「すまん、聞き間違えた」
「んなわけねーだろっ」
 麻美(37歳)の顔立ちは前衛的だった。
「あたしは美を落とした。美を探せ」
 そういう訳か。
「ちゅら(美)ってなんだ!」
 と思わず叫ぶ。
 俺は、小学校3年生から高校1年の2学期まで、沖縄の読谷村に住んでいたのだ。そのときのうちなーぐちが突然蘇ってきた。どこどこまでも青い空、透明な海、白い砂、照りつける太陽…。と回想にふけっていると、大麻麻美(37歳)が再び高飛車に言う。
「それは私の一部であり、道標でもあるのよ、ケンジさん。私、あなたに、私の道標を探すための道標になって欲しいの」
 俺の頭は混乱した。ドーヒョーのドーヒョー?
「んなこと言われてもさぁ。難しいさぁ。俺、シーサー怖いさぁ。秋田生まれじゃないけど、ナマハゲも怖いさぁ。俺あと怖いものは、ハブとべーへーとふぃーじゃーぐすいと」
「黙りなさい」
 大麻麻実(頭部)は細い眉をつり上げて俺を見据えた。
「ボルシチの麻の実たちに、まず話を聞くのよっ」
 大麻麻実(頭部)の剣幕に押され、俺は麻の実インタビューのためクルリと踵を返した。
 ウワ〜っ!なんだこれは。
 足を踏みだした途端、俺の視野は一面、真紅に染まった。上も下も右も左も鮮やかな紅一色、壁を舐めてみるとほんのり甘い。どうやらビーツの迷宮に迷いこんだらしい。おっかなびっくり最初の分かれ道まで進むと、足下にキラリと何かが光る。おやこんな所に麻の実の母が、金歯を光らせお辞儀する。
「おこしやすー、地震は大変どしたなー、お茶漬けでもどーどす、どすどす」
 どすどすが鍋に反響する。どすこい、どすこいとロシア力士が四股を踏む。
「カムチャッカの海っス、ごッつあんっス」、力士もご相伴にあずかる。
 ボルシチ茶漬けは麻の実。大麻麻実(頭部)はダシになった。カリルと噛んだ麻の実から俺が顔を出す。シモーヌも顔を出す、俺はシモーヌと俺自身を飲み込む。ダシが横目で俺達の様子を窺っていたのには、うすうす気付いていたのだがよく見ると、その緊急事態な顔立ちに俺は狼狽えた。なにか? 何か君の気に触る事でもやったというのか?しどろもどろな俺の背後で声がした。
「すまない。」
その声は、すもーももーももーもーももーのーうちー、と鍋の中に反響して消えていく。
「すまない。」
 すもーももー…。空中に飛散する語尾を追う俺の視線は、最後に俺の背後に行き着いた。
(;゜ρ゜)
 そこに立っていたのは俺。白目をむいた俺が、俺の空洞のようにこちらに呟く。
「すまない。」
 俺と出会ってしまった俺。
 白い道。白い花。白い海。
 懐かしい人に会ってきた気がする。
 足元を埋め尽くす麻の実。
 そうか、俺は覚醒しようとしていたのか。
 覚醒剤しよう、ではない。しかも、大麻は覚醒剤ではない。麻の実を3粒拾ってポケットに入れた。
 そして、考える。カンガルー。俺が探していたもの、俺が追っていたものは、森山鳩実でも大麻麻美でもなく、俺だったのか?
 何かが俺の中で覚醒しかけたとき、軽い目眩と共に、俺は深い眠りに沈んだ。
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