☆第二章 第七節 「切なさの記憶」

 春になり、八百屋の店先で空豆を見かけると、俺は一瞬の胸苦しさを覚える。
 俺が28歳のとき、シモーヌから汐留藁夫を紹介されたことが、その始まりだった。藁夫は大変質の良い空豆を作ると評判の農家の主で、シモーヌは藁夫の作る空豆以外は空豆ではないと言い切るほどである。
 俺は、藁夫と初めて出会ったときから、胸の奥になにかざわめきのようなものを感じ始めていた。収穫期の藁夫はたいてい、割烹着にモンペに日除け帽に軍手という完璧な農家のおばちゃんルックできめていた。シモーヌと一緒によく、湖の向こう側の高台にある空豆畑に押しかけて行ったっけ。バケツで冷やしたワインを、夕陽見ながらあぜ道で飲むのがそりゃあ旨いんだ。豆の葉っぱがさやさや鳴っててね。ちくしょう、泣けてきちゃったぜ。
 シモーヌがポロロッカにのまれて行方不明になった後、俺と藁夫はカレッタ汐留へ出かけては、祇園辻利の抹茶ソフトクリームを食べながら、展望台から水平線を眺めて、シモーヌの面影を追いながら、3人でいたときのことを懐かしんだ。二人でスカイレストランへ行って、そこで出てきた空豆を一口囓ったとき、藁夫がその不味さに厨房へ駆け込もうとしたのをあわてて止めたのも、今となっては懐かしい。
 もう、あの頃のように一緒に過ごすことは無いのだろうか。藁夫は今も、突撃ラッパが響くところにいるのだろうか。夢の中でも、なんでもいい。藁夫に会いたい。
 切実な問題として、あといくつ残ってんだ藁夫の空豆は。残り少ない空豆を数えるのは、しかし、俺の精神の安定をおびやかす危険な行為だ。残り空豆数がゼロになったとき、俺は死ななければならない。いや、それは思いこみというものだろうが、藁夫の空豆は空前絶後の絶品なのだから、俺のこの脅迫観念に救いはないのだ。なんという切なさだろうか。この切なさを癒すために俺は藁夫の空豆を匂いでみる。目前に、8番目の空豆が飛び上がった情景がフラッシュバックする。あれが脅迫観念の始まりか…
「海前絶後の豆、ってのもあるだよ」
 ふと、藁夫の言葉を思い出した。何時だったか呟くように漏らした言葉。何でも、空海が空豆を日本にもたらした折に実はもう一つ、海豆という種を携えていたのだという。その後、空豆は全国に広まったが、海豆は密教との関連で高野山でだけ細々と作られていたらしい。藁夫はそんな話をした後、得意の謎かけ口調で
「ハナ・ハト・マメの三姉妹、まっかなおうちにすんでいる」
 と口から出まかせを呟くと、俺を突き飛ばして逃げていった。
 そう、いつだって藁ちゃんはそうなんだ。全部口から出まかせなんだ。空海が空豆を日本に伝えたなんて大嘘だし、海豆なんてのも藁ちゃんの創作さ。パロンブにペロンボ? 本人とっくに忘れてまっせ、そんなもん。俺が今まで藁ちゃんの虚言癖と思わせぶりにどれだけ振り回されてきたか、どこへ行くにも
「東京タワーへ向かって歩けばいいんだよ」
 と教えてくれたよね。最初は怒ったけど、じきに聞くと笑えるようになってしまった。小麦粉アレルギーといいながらベーグルをむしゃむしゃ食べてたのはいったい何だったのだろう? でも藁夫が嘘を話すときってなんだかかわいいんだよね。いもしない叔父さんから送られてきたという客船のチケット、あれには困った、手書きのチケット。結局、皆で東京湾納涼船に乗ったら沈没。ロシアの潜水艦に助けられたっけ。懐かしいな藁夫の顔…あれ、藁夫の顔が思い出せない…藁夫はいつも覆面を被っていたからな、いや、それはディカプリ夫? 整形失敗のマイケル? そうだ、納涼船で知り合った白衣の人だっけ。彼が言ってたな、
「おまえが藁夫だって」。
 そりゃなんだと、あなたは疑う。俺が藁夫かと、俺も疑う。
 なんか頭が痛くなってきたな、こういう時には空豆を食べて藁夫の思い出に浸ろう。
 冷蔵庫から空豆を取り出し、ざざざと洗ってビタクラフトの片手鍋に放り込む。塩をひとつまみ振りかけてから蓋をし、弱火にかける。無水調理なので、焦がさないように気を付けないと。
 鍋はすぐにふつふつと音を立て始めた。茹で具合を確かめようと鍋を覗き込んだ俺は、息をのむ。
 鏡面状の鍋蓋に映っていたのは、懐かしい藁夫の顔だった。


☆第二章 第八節 「真紅の空に狂気が踊る」

 目の焦点が合い、ミニクーパーを運転するシモーヌの瞳が見えた。
「やっと意識がはっきりしてきたようね、ケンジー藁夫」。
 それが俺の名前か。俺はゼンジー北京の弟子か。
「ブラッドピジョンの病原体は精神を錯乱するわ、山鳩型スーツを着ないと」。
 真っ赤な空は夕日では無く、鳩の大軍なのか。
「略夫が残した論文の暗号を解読したわ、日の出桟橋の喫茶キリマンジャロに向かうわよ、そこからタイタニックに…」。
 突然、前に飛び出して来た白衣覆面の小さい人が俺達の驚きを無視して一方的に話し始めた。
「空が真っ赤なのデス。真っ赤な鳩ガいっぱいデス。コワイノデス。ワタシニモ山鳩型スーツをクダサイ。」
 よく見ると、片方の足が泥だらけになっていて、小さい草履の白い鼻緒が取れかかっている。
 白衣覆面の小さい人の願いも聞いてあげたかった。しかし、車の中には、俺専用の赤い山鳩型スーツしかなかった。これは、この先に必要になるときが来るに違いない。先を急いでいたので、俺はシモーヌにクーパーを走らせるように言い、精神が錯乱しかけておびえている白衣覆面の小さい人を置き去りにして、日の出桟橋へと急いだ。
「ねぇ、ケンジー、ひとつお願いがあるの。わたし、ポロロッカに寄っていきたい。春日通りの茗荷谷と春日の間、伝通院の近くだから、ちょっと遠回りだけど…。」
 俺は驚いた。ポロロッカといえば、シモーヌが行方不明になったところじゃないか。シモーヌはポロロッカのマスター幌六力おやじを喫茶キリマンジャロに連れて行くつもりなのか?俺は尋ねた。
「シモーヌ、君はポロロッカに寄ると必ず酒に飲まれてへべれけのぐでんぐでんのわっけわかりませ〜ん。になって行方不明になるだろう。週一でポロロッカに飲まれるシモーヌってあの頃有名だったじゃないか。またあれをくり返すつもりか。悪いが俺はもう君を探し回るのはまっぴらだ。あそこのおやじも嫌いだしな。それと俺には『俺』というちゃんとした名前があるんだ。マジシャンの時の芸名で呼ぶのはやめてくれ」
「ごめんなさい、ケンジー」
「ほらまた言った」
「でもさー、一緒に舞台に立ってた時はケンジーと呼んでたじゃない。あなたの得意技、東京タワー消滅マジックやつまみ菜出現マジックは私なしではできないんですからねっ」
「おいおい、それとこれとは話が別だろう」
「いいえ、同じ。私あってのあなただということがわかってれば、そんなひどいことは言えないはずだわ」
「お前だって失敗すると『空は晴れたしホイオバQ!』だも…」
 キーッ!
「おい、怒って急ブレーキかよ…」
「違うわっ」
 車の前にはオバQ鳥を抱えた7人のインド人。後ろから黒い影が2つ。
「ミニクーパーですか、ククク」
 ヒョードリがぱちんと指を鳴らすと、インド人は次々と車に乗り込み、冗談のようなヨガのポーズで折り重なり後部座席に収まった。ワリーヤは横からハンドルを奪うとシモーヌをきっと睨みつけ、
「キリマンジャロね、いよいよアブゾーに会えるわ。ところで隣の彼は、俺…いや」
 ワリーヤは俺に馬鹿丁寧な敬礼をして
「俺様、おひさしゅうござんす」
 と言いつつ、シモーヌに流し目をくれる。
 このミニクーパーは左右対称でハンドルが中央にあり、右の俺と左のワリーヤの間にある運転席にシモーヌは座っているのだが、ワリーヤはヒョイとデタッチャブルホイールを外して左ソケットに差し込み、中央ハンが左ハンになった。中部座席に乗り込んだヒョードリが
「出発進行」
 と叫べばワリーヤはアクセルオン。
 そのあおりでリアウィンドウに最密充填状態でへばりついた7人は、もはやインド人タタミイワシ状態だ。ワリーヤは口笛でカリンカを吹きながらミニクーパーをゴキゲンにぶっ飛ばし、ヒョードリはタタミイワシの隅っこをちょろまかして七輪で炙って食べはじめた。
 日の出桟橋まであと3ブロックというその時、信号待ちする車の窓をコツコツと叩く音がした。
「追われてるんだ。かくまってくれ」
 空豆があたふたと乗り込んできた。あとから河童の宇宙人。ヒョードリにコチラのお席と通されたのが七輪の上。適度な焦げ目が付いたらおつまみにパクリ。
 やがて喫茶キリマンジャロ。
 ミニクーパーが窓を破って飛び込むとアブゾーをはね飛ばし直進、
「この地下にタイタニック号の入り口が…東京を脱出するわ」
 とシモーヌが叫ぶ。
 でも、そこには「鯛谷クリニック」の看板。
「シモーヌ、また暗号解読を間違えたなー、わっはっは」
 みんな腹を抱えて大笑いしましたとさ。とっぴんぱらりのぷ〜。 →index