☆第二章 第九節 「勝敗の行方」

「いつものヤツを」
 キンキンに冷えたストリチナヤのグラスがカウンターに並んだ。
 3ゲーム連敗中のヒョードリ書記官のおごりで乾杯しながら、ダーツバー「Baby Blue」の薄暗い店内を素早く見渡したワリーヤは息を呑んだ。
 見るからに猛烈に不機嫌なシモーヌが、入口に仁王立ちになり髪を逆立てている。行きつけの店、ポロロッカがつぶれたのを皆でひた隠しにしてきたのが悪かった。俺のみたところ、怒りのパワーは7倍増(当社比)のようだ。俺がバーテンに
「彼女にモスコーミュールを作ってあげてくれ」
 と言うと、
「私が日本物しか飲まないって知ってるでしょ、カミカゼつくってちょうだい」
 おいおいあれが日本物なのかあ? 俺は椅子を引いてシモーヌが座るのを待つ。彼女は鋭い目でバーテンの手元を観察し、振り返ってダーツに興じているロシア人二人を睨め付け、それからようやくドスンと椅子に腰を落とす。
「信じらんない」
 とろりとした透明なカクテルをがぶりと飲んで、シモーヌが呟いた。
「この私がいる場所でダーツやるのね」
 よほど気分を害したらしく、バカラのオールドファッションドグラスでドンとテーブルを一撃。こぼれたカミカゼをすかさずバーテンが拭うと
「ああ、もう辛気くさいこと! ポロロッカではいくら舞い上がっても帰り途は空豆天うどんが明るく照らしてくれたけど、もうそれも無理なんでしょ」
 と愚痴る。
 ダーツ場では、ストリチナヤが連敗者を加速していた。
「クソ今度ごゾ。もう一回ダ。これはタダの勝負じゃないぞ、俺は“麻の実”を賭けるっ」
 (不思議な賭け対象だな)
「えいっ」
 ヒョードリの投じたダーツの弾道は点数曼荼羅に向けて放物線を描く。その時、後ろでぶよんと影が揺れた。
「か、カムチャッカの海、いえ極東参謀総長」
 ワリーヤ、ヒョードリが起立、敬礼する。バーテンがケイレンする。カムチャッカの海の腕には、血だらけのアブゾーが抱えられていた。
「ワリーヤ、おまえがCMHCのスパイなのはお見通しだ、アブゾーは我々の二重スパイだ、おまけに二重まぶたダ」、アブゾーが血だらけの目をパチリと開くと確かに二重まぶたであった。
 そして緑がかった灰色の瞳にシモーヌは気がついた。
「生物兵器が麻の実に隠されてぃ・・」」
「ねぇ?ちょっと待ってちょうだい。アブゾーさんは、どうして私とおなじ瞳の色をしているのかしら。二重まぶたなところも一緒ね、でも私は二重スパイではないのよ。それよりあなた、チーズはお好き?」
 アブゾーは苦痛に顔を歪めながら、
「麻の実じゃないんだ…本当は…」
 それだけ言って突然息絶えた。
「今何と言った!?」
「よく聞こえなかたあるよ。もう一回」
 ヒョードリとワリーヤがとんできてアブゾーを力まかせにゆすったが、アブゾーは死んでいる。カムチャッカの海がアブゾーの体を持ち上げて床にバシバシ叩きつけたが、アブゾーは死んでいる。気絶じゃなくて間違いなく死んでいる。アブゾーは死んだ。ああアブゾーは死んでしまったアーアーアやんなった、アーアーア、おどろいた。
 しかし、それより残された3人はアブゾーが最後に残した言葉が気になる。
「本当は…」
 何だったのだろう?ここで、ヒョードリとワリーヤが、
「こういうときは、日本古来のこっくりさんしかないでしょう」
 と言い出した。なぜ彼らがこっくりさんを知っているかは謎だが、俺は救急車を呼ぶのも忘れて、10円玉とボールペンを取り出し、文字盤を作った。こっくりさんの文字盤を作ったのは、読谷小学校のとき以来だな、と思い出に浸りながら鳥居のところに10円玉を置く。3人の人差し指を10円玉に載せ、ヒョードリが
「こっくりさん、こっくりさん、どうぞおいでください」
 と唱えると早速10円玉が動き出す。
「た」
「あ」
 俺が首をかしげていると、ヒョードリとワリーヤは納得顔で
「『はい』はロシア語で『ダー』なんだ」
 と教えてくれた。俺は
「こっくりさん、どうぞ日本語でお答えください。麻の実の正体は何ですか?」
 と尋ねてみた。10円玉が動く。
「す」
「ご」
「い」
「た」
「ね」
 …すごい種?
 その瞬間、ピシ、と鋭い音が響く。
 麻の実と見えた殻が一斉にはじけ、猛然と芽吹くつまみ菜の群れ。ヒョイヒョイと伸ばしたひげ蔓に搦めとられた俺たちは、たちまち千重螺旋に撚りあわされた若茎に突き上げられて天井を破り、ビルを吹き飛ばし、緑の塔の頂に宙吊りとなった。
 眼下の東京をヒタヒタと襲う大洪水を、なす術もなく眺めながら。 →index