☆第三章 第一節 「宴の夢」

 緑の塔の頂につるされてから、どれくらいがたっただろうか。
 なんとか無事に俺達は、下界へ戻ってきた。
 あのとき塔の頂で見えた、東京へ向かっているように見えた津波が気にかかる。そんな心配も、ワリーヤ、ヒョードリ、カムチャッカの海の
「ザ シャースチエ ズダローヴィエ」
 の声でかき消された。
 そう、今は割烹「カッポレ」のオープニングセレモニーの真っ最中。おれも
「乾杯」
 とグラスを重ねる。シモーヌも店の隅に独り陣取って結構な勢いで杯を重ねている。かなり酩酊した様子で、何やら独り低い声で口ずさんでいる。
「〜訳っもなく酒を飲み、、うp、、片隅できいていたボッブッディランー〜オール アロング ザ ウォッチタワー〜、ううp、もの見の塔に吊されて〜」
 たまたま通りかかったカッポレの若い従業員ロスケノフが、これを小耳にはさんで仰天した。
「お、お客様、そのような危ない歌はここでは・・・」
「何だっての?うるさいわね。アンタもほれ、これ一杯やんなさいよ」
「あの〜、お客様・・・」
「ほらってば、乾杯〜!」
「・・・、うp」
 シモーヌに無理強いされた杯の中身も知らず一息に飲み干したロスケノフは、たちまち顔面蒼白、心頭滅却、御名御璽の状態に陥った。息も絶え絶えとなってワリーヤとヒョードリに担ぎ出されていく若者はしかし、担架の上で弱々しくかっぽれ踊りの手振りをしてみせるのであった。見よ、何たる健気さ!居並ぶ飲み助たちは彼を讚えて足をどすどすと踏みならしながら、盛大な乾杯とともに担架を見送るのであった。
「次はおまえじゃあ〜っ」
 シモーヌの両の眼は爛々と輝き、そのたてがみは炎の如く燃え上がる。
 彼女のヒヅメの指し示す先には、藁原叔父貴がいた。わらわらおじき。変な名前だが本名だ。
「飲め、ワラオジ」
 シモーヌは叔父貴の手に無理矢理グラスを握らせると
「おまえのひとみに乾杯じゃあ〜っブルルルひひ〜ん」
 一声いななき、自分の分を一気に飲み干した。何者だこいつ。たてがみの炎は激しさを増し、ほとんどシモーヌは燃えていた。
 天井の隅からfushianaさんが睨んでいる。煙に噎せてなみだ目のfushianaさんは、いつもより不機嫌だった。
「お前、燃えとるぞ」
 その声に振り返った赤いシモーヌはfushianaさんに猛然と近寄り
「飲め!」
 と叫んだ。
「酒ならマイグラス、はい、乾杯! しかしお前、燃えとるぞ」
「燃える心なら誰にも負けない!」
シモーヌは叫んだ。たてがみの炎は一段と激しく燃えさかった。
「燃えとるのはお前や、鏡をみてみい」
 また振り返ったシモーヌが会場奥にある姿鏡を見ると、そこに映っているのはシモーヌがふたり!
 たてがみをふり乱して燃えているシモーヌと、そのたてがみの炎から形作られた真っ赤なシモーヌ。どうやって話すのか、炎のシモーヌは炎のカクテルグラスを片手に鏡の中のシモーヌに向かって
「乾杯!」
 と叫んだ。
 俺は非常に居心地の悪い思いをしている自分に気が付いていた。実はアルコール依存症で肝臓を壊し、もう4年近く断酒を続けているのだ。このくらいやめていると、宴会にいて同じ状況にあるヤツは、すぐに目に付く。それは「カッポレ」のマスターの母方の親戚にあたる、ご隠居だった。近寄ってみると、向こうもそれと気が付いたようで
「ウイルキンソンのジンジャエールやるかね」
 とコップに入れてくれる。
 俺はご隠居と乾杯して、そのまま腰をおろそうとしたのだが、突然バラバラと屋根を叩く物音がした。格子戸を開けると外は真紅の雲に覆われており、麻の実が激しく降っている。
 ブラッドピジョン!
 実を投下した鳩どもがカンパイカンパイッと騒ぐ。バラバラ、か、乾杯……
「おい、どうした?」
 揺さぶられて目を開いた。ワラオジの、その奇矯さに似ぬ優しい眼差しがあった。
「あ。宴の夢を見ていたようです」
 つまみ菜の葉陰。眼下では麻の実のように小さい港区が水に覆われている。
 俺はいつの間に眠り込んでしまったんだろう。さっきまで、コタツに入って藁叔父、ディカプリ夫、河童の宇宙人、シモーヌと紅白歌合戦を見ながら乾杯していたような気がするのだが。いやいや、シモーヌのミニクーパーのなかで眠ってしまったんだっけ…。
 相変わらず記憶がはっきりしない。俺は眠気覚ましに窓を開ける。外の空気が、熱い体を心地よく冷やしてくれる。後ろではご隠居の
「Тост」
 の声が響く。いつの間にか戻ったヒョードリとワリーヤが、空腹なのか
「пирожок、пирожок」
 と叫んでいる。
 気持ちのいい夜だ。空を見上げていると雪が降ってきた。
 手のひらに雪片を受け止めるとあっと言う間にとけたが、それが赤い。なめると鉄臭い血の味が口に広がった。はらりと舞い降りる雪を炎のシモーヌのカクテルグラスに受けてみる。いっぱいになったところで、手で覆って溶かすと美しい赤い液体になった。カクテルグラスをかかげて、
「A Votre sante」
 とつぶやきながら、赤い液体をゆっくりと飲みはじめた。
 この血の味は、アブゾーが流した血だろうか、などと考えながらゆっくりと美しく赤い液体を飲み干した。

第二節 「フェーヴ・ドゥ・メール (Feve de Mer 〜海豆〜)」

 光が踊っている。
 キラリキラリと跳ねる。
 (う、眩しい)
 風が幾千枚の緑の葉を揺さぶると、朝の木漏れる陽光が、俺の顔面でアントルシャを連続で決める。
 [y Blu]…ダーツバーの引き裂けた看板を立て掛けただけの俺の塒を寝惚け眼で見回せば、ガラス球に満たされた塩分濃度25.3psuの水に浮かぶ海豆が、気持ち良さそうに発芽を開始している。
 ずろりと音がするので見上げると、ワラオジがヲタモエの蔓梯子を降りてきて
「おはやう!アサノミの調子はどうだい?」
 とガラス球を覗き込む。アサノミとは、ワラオジが海豆につけた愛称なのだが、相変わらずエキセントリックな発想をする叔父貴だ。
「海豆は養殖できるのか?」
 ヒューン、久しぶりの登場に興奮気味の鳥の脚が、さっと誤変換する。
「海豆の洋食はできるのか?」
「はい、広島の蔓水緑さんがオーナーシェフの洋食屋台『じゃけん亭』が海豆料理を名物にしてます」。
「そーか、生きているうちに一度食べたいものだの〜」、ふぅとため息をついて遠くを見つめるワラオジ。
 その時、表通りから
「洋食屋台じゃけんの〜、じゃけん亭じゃけんの〜」
と蔓水緑らしき声がする。声のする方へワラオジが駆けだしてみると、屋台をひくシェフの姿が見えた。遠目から看板を見ると、
「・・けん亭」
 と見えた。あわてて近寄ってよく見ると、
「しゃけん亭」
 とあった。ワラオジはその場で崩れ落ちそうになった。気を取り直して、屋台を引く緑の髪のシェフに名前を聞くと、
「わしは、蔓水録じゃけん」
と答えた。続けて、
「うちの名物は海豆の和食じゃけん」
 という。ワラオジが、広島のじゃけん亭との関係をたずねると、
「あっちは、ぱぱの店じゃけん」
 という。
 緑の髪の彼は色白で、蔓が深い水色の眼鏡をしていた。さくらんぼをつなげた首飾りをしていて、ワラオジがそれをみつけると1つくれた。さくらんぼを1つくれたのではなく、さくらんぼの首飾りを1つくれたのだ。ワラオジに。それが蔓水録と過ごした最初で最後の一日だった。
 翌朝、ワラオジの姿は塒になかった。
「じゃけん亭に行くる」
 と録音を残して。
 録の姿もなかった。ヲタモエの蔓梯子を降りて、いや、登ってか、とにかくカケオチしやがったのだ。
 俺は緑の水に囲まれて一人きりだった。寂しいので蔓電話を考案し、設計し、作成した。
「もしもし?」
 俺は問いかけた。蔓は振動し、振動は蔓延する。周り中の蔓、周り中の緑の水に蔓延する。
 蔓電話は叫ぶ「もしもし?」緑の水も囁く「もしもし?」叫びと囁きを拾いあげた蔓電話はまた周り中に振動を蔓延させる。
 蔓の絶叫の中、緑の水は俺に問いかけを行なう「もしもし?」ざわめく緑の水の液面が私を誘う。
 私が水に顔を近付けると水中から緑色の何かが無数の蔓をゆらめかせながら、ぐんぐん伸び上がって来ているのが見える。
 しかし何とも塩臭い水だ。
 次の瞬間、それは水しぶきとともに急激に緑色の姿を水上に現した。そして尚も天をも突く勢いで空に向かって伸び続けている。
 それは異常に巨大化し、大木と化した海豆が獣じみた成長を続けるいかがわしい姿にほかならなかった。
 あまりの光景に出くわしたせいか、俺は逆に妙にマッタリした気分になり「海ならずとも塩漬くみどりの蔓茂り」などとつまらん惹句をつぶやいた。
 俺は惹句と豆の木のアンビバレントな取り合わせに酔い痴れているうちに、いつのまにか自分が、貧乏だが母親思いの元気な少年になっていることに気付いた。
 よし。
 俺は目の前の一本の蔓に飛び付くと、一心不乱に豆の木を登り始めた。絡まり合う緑の蔓から塩辛い水がボタボタ落ちてきて俺の服はびしょぬれだ。でも子供だから気にしない。
 やがて雲の上に着くと巨大な宮殿があり、一人の巨人が食事の支度をしていた。
「なんだお前は?」
 俺は胸を張り答えた。
「僕は惹句!」
「そうか惹句、ようこそ。つるむらさきのベッドでひと休みしていかんかね?」
 巨人の指さす方には、こんもり積まれた濃緑の葉が俺を誘うように、みずみずしい香りを放っている。でもよくよく見ると、その葉はすでにライム風味のドレッシングでキラキラ輝いているじゃないか。
「サラダの具になるのはごめんだね」
 俺はスタコラ逃げ出した。広間の片隅、泉のほとりで息を整えていると
「やあ」
 と声がする。
 水鏡を覗いてみるとそこに映っているのは藪蛇ヶ原虻造の頭部。惨たらしく引きちぎられた頸から激しく血が滴っている。一歩退くと、水鏡の回りには、緑青を吹く大鏡・今鏡・増鏡が蔓荼羅を形成していた。それぞれ、虻造の脚部・胴体・腕を映している。四肢から吹きだす血は、下界の雲まで赤く染めている。
 がちょ〜ん…、と驚く俺を
「あほ、金の卵を生むんは鵞鳥ちゃうわ、メンドリや」
 と冷笑する虻造。
 ジリリ、ジリリリ。
 その時突然、蔓電話が鳴った。
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