☆第三章 第七節 「終わりの気配」

 藁夫と過ごしたのもこんな日だった。
 俺は書斎でごろ寝を決め込み、藁夫は縁側でこ難しそうな本を読んでいた。テレビではアナウンサーがニッポンを連呼し、外では蝉が最後の命を燃やして五月蝿く鳴いていた。オリンピックと共に夏が終り、秋がくるのだなあ。秋の静寂は早くきてほしいが、夏の喧騒がなくなると思うと少しさびしい。あのころの俺は藁夫がどこぞからくすねてきた氷菓子をぺろりと平らげては、いつまでも名残惜しく木の匙をしゃぶっていたものだ。
 よし、もひとつ食べよう。俺はすっくと立ち上がり、お勝手に行った。
 冷蔵庫の扉を開けると、そこには小さな雪ダルマが座っていた。
 雪ダルマの目は空豆、鼻はつまみ菜、口はナルトでできている。去年の大晦日にワラオジが作った「作品(ルビ:アート)」を、藁夫が大切に保管しているのである。しかし、春を過ぎ、夏を過ぎて秋になったいま、10ヶ月近くを冷凍庫のなかで過ごした「作品」は痩せ衰え、ナルトのぐるぐるがむしろ切なさを助長している。
「いろいろなことがあったような気がするが」
 誰にともなく俺はつぶやく。
「いろいろなことはほんとうにあったのか。実はいろいろなことなど何ひとつなくて、この雪ダルマの存在こそがすべてだったのではないか。目に空豆、鼻につまみ菜、クチナルト。この侘しい風景こそが俺の青春のすべてではなかったのか。そしてその青春も今ようやく終わろうとしている」
 その時ふいにナルトのぐるぐるが逆回転を始めた。つまみ菜は騒ぎ出し、空豆は今にも飛び跳ねそうにじじじっとうごいて、そのまま雪ダルマは仰向けになった。縁側に目をやると、読書を続ける藁夫の向こうに、台風の影響か雲がかっこいいスピードで飛んでいる。
 やっぱり何も変わっていない、俺は妙に静かな気持ちで開けた冷蔵庫の前に立ち、悲しい雪ダルマを見下ろした。冷蔵庫を開け、味噌カツと海老フリャーと煮込うどん、そしてデザートのういろうを取り出し、台所の卓に並べてしみじみとむさぼり食った。どれも昨晩の残り物だ。
「おいお前、意味が違ぇだろ」
 雪ダルマが何やら叫んでいる。
「そのオワリちゃうわ…ってか俺が溶けるだろこのターケ。あのよ、ワラオジも広島の打ち上げから帰ってくるってじゃないか」
 そうだった。彼氏が戻ったらいよいよ俺たちは略夫捜索に出る。その為に借りた名古屋章の写真集「柔道一直線〜鶴田部長」探しに夢中になっていたら、雪ダルマが解けかかっていた。
 溶けたしずくが涙のように流れている。俺は雪ダルマを抱きしめた。雪ダルマともお別れだ。最後の一片が手の中で溶けてく。
 この物語も終わりの時が来た。テーマ曲は盛り上がり、観客は涙を押さえ、スクリーンには巨大な「完」の文字が浮かび上がった。
 と思ったら、それは完の体形をした完ちゃん、略夫の弟の完夫だった。完ちゃんは頭が小さく、常に欽ちゃん走りの格好だ。(読者諸君、完を拡大して見たまえ)
「やあどうも、元夫です」
 と、ウかんむりを脱いだ完夫が自己紹介した。
「びっくりしたでしょう。拡大して見たら完のウかんむりは帽子だったなんて、読者オカンムリですよねぇ、ははは。ま、そういうわけで完ちゃん、登場したと思ったら、3行も持たずに終わりました。なんと空しい生涯なのでしょう。しみじみ味わいましょうね。ところで」
 スクリーンから出てきた元夫は、雪ダルマが溶けた液体を、ウかんむりの中に集めて冷凍庫に入れながら言った。
「実は私もね、長くは生きられないんですよ。まあ、生まれながらの宿命というやつなんで…」
 語尾まで聞こえないうちに元夫の頭から「一」かんむりが落ちて彼の人生はあっけなく終わった。
「やあどうも、兀夫です」
 と言うが早いか、更に兀夫の頭がもげて儿夫になった。儿夫は二つ転がった「一」かんむりを拾い、凍りかけた雪ダルマシャーベットに線香のように刺そうとしたが足が滑ってしまい、「一」かんむりは地面に突き刺さった。
 雲の切れ間から陽が差してきた。すると、地面に刺さった二本の「1」から芽が出て、あっという間に蔓が天高く伸びていった。
 儿夫は、蔓をしっかりとつかんで登りはじめた。登りながら、今までの人生が脳裏に走馬燈のように浮かんで、最初の記憶は巨大な宀が空から降ってきて、と上を見あげるとその時より巨大な宀が全天を覆っていた。その巨大な宀がみるみる小さくなって儿夫に襲いかかり、儿夫は手に持った二本の蔓を頭上に差し上げて防ごうとした。だが蔓は一となり宀は二本の一を巻き込んで儿夫の頭にかぶさった。
 完夫の復活である。陽を背中に浴びた完夫の姿はまさしく時代の終焉を象徴するかのようであった。
 その姿を縁側から見ていた俺は、ああこれで本当に夏が終るのであるなあと嘆息した。

☆第三章 第八節 「其は彼の人か」

 空は成層圏まで抜けるように青い。はるか望見される湾には波光きらめき、御輿の歓声が遠く聞こえる。まごうかたなき秋の気配…。
 三度四度、かようなムードの演出を試みるも、藁夫との思い出に浸ろうとするたび、俺は其処彼処に魑魅魍魎の跋扈を許し、静かな記憶は掻き消されてしまう。
 俺には分かっている。
 こうなるのは俺と藁夫が共有する精………うあっ…、丸太につかまった俺は海水をしこたま飲んで思考が途切れた。失敬。えー、こうなるのは俺と藁夫が共有する精神の波動… うあっ…、俺はまた海水をしこたま飲んで思考が途切れた。失敬。えー、こうなるのは俺と藁夫が共有する精神の波動が何らかの原因によりズレ始め…うあっ…、俺はまた海水をしこたま飲んで腹がいっぱいになり考えるのを諦めた。丸太につかまったまま、泳ぐ気力もなく俺は漂っている。
「諦めてはいけない」…誰だ、今喋ったのは? 周りは見渡す限りの大海原、俺以外に人の姿はない。とうとう幻聴が聞こえてきたようだ。どうせ聞こえるならもっと色っぽい声がいいのに。
「諦めてはいけない」 同じ声が聞こえてきた。周りは見渡す限りの大海原、俺以外に人の姿はない。
「諦めてはいけない」、海中を見ると巨大な鮫が俺に迫ってくるるかりる? なんということだ、恐怖のあまり軽快な響きの耳鳴りが始まってくるるかりる? おーい、空ゆくカモメさんよ、俺を助けてくるるかりる? 
「やっと正しい用法にたどりついたな。お前、日本語ヘタすぎ」
 鮫のくせに、余計なお世話だ。むっとした拍子に我にかえって耳をすませば、かすかにつぶやくようなその音は、大海にぽつりと浮かぶ俺のしがみついた、その丸太のなかから響いてくるようではないか。それはえらく曇った声だ。
「早く起キロロ。もうおピルルだよ〜ん」
 く、くだらん。おい、もうちょっと内容のある波動を送ってよこしやがれ…、と言いかけて俺は気が付いた。そんなくだらん軽口を叩くのと言えば…、いつもなら「俺」じゃないか。
(ま、丸太の中に俺がいる?…)
 ギョッとして後ろにのけぞると
「起キロロ…」
 の声の音程が急に下がっていった。
 げ、すると丸太の中にいるのは俺のドップラーゲンガーなのか?、つまり、俺がのけぞるとと丸太の中のドップラーゲンガーとの距離が遠ざかるわけか。
 丸太につかまった俺は、助けを求めるために、ゆんゆんと電波を発した。そしてよんよんと電波を受け取った。強力な電波だが、それは丸太の中のドップラーゲンガーからの電波のようだ。その証拠に丸太に近づくと、周波数が高くなる。
 と、丸太が緊急避難な警告音を発した。後ろを見ると、鮫の群が猛スピードで追いかけてくる。俺は丸太を漕いだ。必死の逃走も虚しく、あっさりと追いつかれるとホウセッな香りが俺を取り囲んだ。
 鮫と思ったのは餃であった。俺が水上ワゴンから蝦餃の蒸篭を取り上げると、オバさんがハンコを押していく。水平線の彼方までワゴンの行列が続いている。いつのまにやら回りにはタイタニック号のみんなが集まり、打ち上げ宴会が水上で開催されようとしている。姿なき漂流楽団を指揮しているのは、いまはなき水上勉だろうか。彼も丸太に乗っている。おびただしい数の漂流者が、それぞれ丸太に乗りながら、無数の水上ワゴンから好みの点心を取りながら、水上の音楽を聴いている。
 これだけの量の丸太、いったいどこから来たのだろう、などと俺が怪しんでいると、背後から絹を裂くような女の悲鳴が聞こえた。
「ホウトン!ンホウラ、ガウメンアー」
 俺は振り返った。女の姿はない。水上では見えない漂流楽団と、丸太に乗った水上勉や点心、漂流者達の賑やかな風景が拡がっているだけだ。西からの風がオレンジいろの匂いをはこんでくると、女の呪文のようにも聞こえたさっきの明瞭な叫びが、直線で再び、俺の耳に立ち上がってきた。
「ホウトン!ンホウラ、ガ・・」
 するとぽとぽと、ぽとぽとあちこちで空からなにかが落ちてきている気配がして、その度に水面がそこらじゅうで凹み、ざわめき始めた。目を凝らして水面を見てみると、降ってきているのは小麦、大麦、燕麦、玉蜀黍、米、粟、稗などの穀物であった。(筆者注:私はのちにこれを「穀物の雨」と名付けた)
 女の呪文はなおも続く。
「チャーゴ・ンガゴグ・マンチャウ・ンガゴグ・ガガギギ・ンガゴグ・ググゲゴ・ンガゴグ…」
 ふん、耳障りな、最近は鼻濁音すらできない輩が増えてきたな、などと思っていると、いつの間にか女は海中に沈み、姿を消していた。穀物の雨足は激しさを増し、俺はただ驟雨の海原を漂流し続けていた。
 やがて周囲の海が穀物で埋まった。俺は穀物の孤島に独り立ちつくし
「食料は穀物だけか、蛋白質が足りないな」
 などと、どこか滑稽な行く末を案じて薄く笑った。
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