コン、コン。はじめおずおずと、やがてせっかちに繰り返すその音は、僕の右の耳からするりと頭の中に滑り込んできた。僕の頭の中でコンコンはコココンコンを産み、その子ココンココンとコツンコツンがドンドンとドンドコに輿入れすると、またたくまに、脳のシワひとつひとつの間にその子のドカカンカン、孫のコドンコドン、ひ孫のグアニンシトシンとやしゃごのアラニンロイシン、さらにその子のカゼイン、アルブミン、アルブチン……一族郎党住みついて脳内は大騒音で満ち満ちた。一足飛びに分子量が増えた重みで首の骨がきしみはじめる。もう駄目だ。首が折れる。それにしてもなんてやかましいんだ。 気がつくと、ノックはまだ続いている。なんだ、新聞の集金か。扉を開くと、さっき増殖した音たちが一気になだれこみ、僕の頭をすっかり占領した。 |
風が女のかたことの英語を吹きとばす。なぶられた髪が、男の頬、金色のあごひげをかすめた。基地のフェンスの外の闇は濃く、じっとりと躰を包む。 「基地がなくなるわけじゃない、返還でなにが変わるっていうんだ」 甘く熟した花の香と男の声が、遠くなる。そう、なにも変わらない。島の女となにがあっても、サヨナラの一言で、おしまいだ。もう忘れよう。明日からは別の人生を。そんな心とうらはらに、女の唇から、ふるい歌がこぼれた。 「いろかじぬうむいや はちゃるとうちぬくらしみに……」 数ある想いは過ぎた時の狭間に忘れようと思い置いてきたはずなのに……。 島歌のことばは大地に沁みこみ、島の地の根をゆるがし、海蛇の眠りをさまし、獅子は女の夢の中で夜毎咆哮を轟かせた。サヨナラのことばを残し去っていった異国の男は、その後、砂の国の戦で命を落としたという。 * * * あ、お題って「返還」じゃなかった? こりゃまた失礼しました… _o_ |
丸めた『ざべ』が空を切り、俺の手前で突然止まった。こいつ、俺の声が聞こえるのか。まぁ、百年に一度くらいはこんなこともあるからな。 退屈しのぎにそいつとたまに話すようになった。生まれ変わっても昔の記憶を連綿と背負って歩く俺達にとって、一世代は一瞬の夢みたいなもんだ。太古のでっかいシダの匂い、最近食べた毒団子の味、先月隣の団地であった漏水騒ぎ、何を話しても奴は面白そうに聞くもんだから、今生は中々いい巡り合わせだなんて、ついほっこりしちまった。しかしプログラマってのはヒマなのかね、毎日家にいるけど。メスとは仲が悪くて喧嘩ばっかりだ。 ゆうべから奴の様子がおかしい。俺が声をかけても知らんふりだ、いや、聞こえないのか。台所を閉めきったきり出てこない。この家のメスが隣で交尾してた話はやっぱりマズかったかな。おや、敷居からバルサンの白い煙が。 |
この朝、世界中の空気はびっしりと詰まったトコロテンになっていたのだ。さて、日常生活にはほぼ支障のないトコロテン空気だったが、唯一の問題は速度の二乗に比例して増大するトコロテン抵抗。車など高速の移動手段は使用不能、都市機能はマヒし、人々は困り果てた。 この苦境を打開したのがエヌ博士。前進時には不可避のトコロテン抵抗が垂直〜斜方の運動では回避されるという大発見に基づき、画期的な「跳躍靴」を産み出した。ピョンピョン弾む移動の感覚は爽快ですらある。朝刊一面を埋めるエヌ博士の写真に感謝の投げキッスでもしたい気分だ。おや、エヌ氏の背後の暗がりの装置は何だろう、まるで巨大なトコロテン製造機にも似た…… |
「ばか言うなよ、紅葉のまちがいだろ」 「なんだ、まだ知らないのか? 大騒ぎだぞ、今。あれはケヤキの花じゃない、こんなことありえないって植物学者は頭かかえてるらしいけどね」 その日の帰り、騙されたような気分だったがやはり気になって、途中下車した。たしかに妙に人出は多い。ごったがえす地下鉄出口から外に出た途端、見上げた視界一面、薄くれないに染まった。アーモンドに似た、やさしい薄紅色の花が、丈高い並木を霞のようにつつみ、ほのかに甘い香が漂っている。夕まぐれ、行き交う人々の顔もぽうっと明るんで、季節外れの花見の宴だ。私の傍らではみすぼらしい老人が満面に笑みを湛え、目には涙までにじませている。お迎え前の最後の花見番外篇に感無量、といったところだろうか。 後で気になったのは、野良着姿のあの老人がなにやら握り締めていた白っぽい粉。脇に抱えた箕に入っていた、あれはいったい何だったのかなぁ。 |
昼下がりの教室、まどろむ俺のこめかみに、いつもはじけた紙つぶての手紙。そんなものは皆、遠い昔、俺にとっては前世にもひとしい過去の物語だ。忌まわしいあの夏の朝、俺は巨大な毒虫となり、毒蛾となったこの姿のまま、なすすべもなく生き永らえている。今では吐く息さえも毒のガス。刺激性の鱗粉をまきちらし、今日も首都上空を羽ばたく俺に弾丸の雨が降りかかる。 ぱちん。頭に軽い衝撃、見ると巨大な紙つぶてだ。広げれば小学校の校庭ほどの紙いっぱいに躍る、懐しい文字。昔机を並べたあいつが討伐隊長だったとは。無人島での隠棲を勧める提案、久々に触れたあたたかい情に俺の心は震えた。大粒の、熱い、毒の涙がぽろぽろあふれる。涙は街を溶かし、森を焦がし、俺自身をも溶かし尽くした。ふたたび世界に溶けこむことを許された俺の喜びの吐息がボコリ、というと街も森もあいつも俺も皆溶けて消えた。 |
かっこう、かっこう。ひねもす鳴くよ、かっこう、かっこう、かっこう。 |
――ややっ、奥の大鍋の前で采配をふるっているのはK談社の山本さん。なぜここに、と青ざめる私を手にしたお玉でニコニコとさし招く。そりゃ、先生に羽根をのばしてもらいたいのは山々ですけどね、どーしても忘れてもらっちゃこまる4文字ってのがこっちにもありまさぁね。先生の通り道に暖簾でも出して見てもらおう、と思ったら逆さに読まれてこの始末。てな訳で先生、来月の分もよろしく〜 |
「すまんがワシは今、それどころぢゃないっっ」 |
――甘い夢から我に帰ると、数学教師が目の前に仁王立ちだ。大ピ〜ンチ。でも僕は慌てない。悠然と黒板に歩み寄り(時間を稼いでいるのだ)、ゆっくりとチョークを選んでいると耳元に甘酸っぱい香とささやくような声。 「……そう、yに30を代入して……解は-6……」 白い粉をはらはらと散らしながら言われるままに黒板に記した答えはもちろん正解だ。踵を返すと右のこめかみ辺りにちらと赤い色がよぎる。 親指のツメほどの鮮やかな紅色の舟は梅酢のいい匂いがして、ケシつぶほどの小人を満載してる。いつの頃からか僕が窮地に陥ると、この紅生姜の小舟が飛んで来てくれる。耳元で知恵を授けるその姿、他人には見えないらしい。 今日は日曜。留守番の僕は台所で昼食に焼きソバを作っていた。さて食べるとするか。青ノリと、あれ?……ない?ない!そんな馬鹿な……僕のピンチを舟は救ってくれた、いつものように。そして二度と現れることはなかった。 |
淀んだ河岸にもやってある屋形船は小体ながら気の利いたつくりであったが人の出入りの気配はなく日頃の往来につけ気にならぬでもなかった。そんなある日突然現れた貼り紙、橋の上から身を乗り出して見ると墨痕も鮮やかに ――とある。天麩羅好きでは人後に落ちぬ。海老のぱりぱりした殻と、みずみずしさをとどめた身の官能的ともいえる対比なんぞたまらない。さっそく勇んでおとなえば、ささ、奥へと座敷に通され、ついと障子をすけると船は知らぬ間にすべるように流れを下っていた。ところが待てど暮らせど肝心の天麩羅鍋が現れぬ。どうしたことか。突然、船が逆しまにもんどりうった。あ、熱い。たぎる油と炸裂する黄金色の泡が視界一杯に広がり、意識が消えた。 我にかえると、目の前には揚げたての天麩羅。慌てて箸をとる。うぅむ、香ばしい殻とふっくらした身がたまらぬ。おや、殻がなにやら船に似た細工だが。 |
ザリガニ捕ってた僕の体が突如 5 cmくらいに縮んでしまったのは、沼の主の緑龍爺の魔法のせいだ。僕が内緒の遊び場にして好き勝手してたのが気に障ったらしい。もうしませんって謝ったら堪忍してくれたけど、大きくする術は下流の淀みの錆鰻婆しかできないからって、地図だけ呉れた。 途方に暮れて泣いてたら気のいいビズリーが仲間になってくれて、川下りの旅が始まった。なにせ小さいから時間がかかる。凍える冬はミノムシに防水マントを織ってもらって、うとうと寝てばかりのビズリーと旅を続けた。 もうすぐ春。雪どけで水が増えるのも心配だけど、気がかりなことは他にもある。もう自分の名前も思い出せない僕は、ほんとに元の暮らしに戻れるんだろうか…… |
但し……」 俺は白衣の医者をいきなり殴り倒し、バイアルを懐に逃げた。 細香の目ん玉が、死んだ魚みたいにどよんと濁っちまったんは、二年前だ。 俺と細香は竹の里に育った。あいつの作る竹細工は、嘘みたいに細かくて、俺が峠三つ越えて町まで運ぶとよく売れたもんだ。目ん玉濁ってから細香は笑わん。祝言の話にもいやいやをするだけで、どんどん痩せてく。 あいつの笑顔が見たいんだ。 先生すまん。金は後で工面する。今は一日でも早く……。 ほんとに丸二日で薬は効いた。もう魚の目じゃなくなった細香は、久々に見る俺の顔ににっこり笑った。万歳。数日ぶりで自分の家に戻ると戸口に電報の束。全部おんなじ文面だ。 「コウウイルスザイ/ヒツヨウ/シキュウ/カンジャ/ツレテコラレタシ」 あれから一カ月。細香は日に日に透きとおる。あわてて使った薬も遅かった。今やウィルスたちは全身を駆けめぐり、細香は日に日に透きとおっていく。 |
「定期は預かってます。ただ、お返しするかわりにちょっとお付き合いいただければ」と耳打ちする。 定期の為とあっては仕方ない。線路沿いの空き地の土管の陰の土手にひっそりたたずむウサギ穴までついて行くと、いきなり背中を突き飛ばされた。暗転。 どこまでも落ちる体が長く伸びたような感覚がいやほんとに伸びている背骨が捩れる……びよん。体が縮む勢いで、靴が飛んだ。 「惜しい、月まで2cm!」 気がつくと丸い空に月が笑っていた。土管から這い出すと夜露に濡れた野原が白く光る。はだしの右足が冷たいが、定期も返ってきたし、ま、いっか。 |
「……はじめてのヒコーキはわくわくしてねられません。暗くなってエイ画です音がしないけどみなヘッドホンですエイ画もおわってみなねてます。ぼくはのどがかわきました。後ろのお姉さんに水をもらったもどって来ると、右のおじさんのおしりから茶色のしっぽがはみ出てた。びっくりして左を見ると口あけてねてるお姉さんのほっぺにヒゲがぴんぴんぴん。うちのパパにもしっぽ。ママにはおヒゲ。ぼくはこわくなって目をつぶったら目をあけるとすっかり明るくてママがにっこり笑ってもう着くわよ、といった。ヒゲはないねといったらおバカさんゆめでも見たの、と頭コツンとされました……」 氷の崩れる音ではっとする、いかん、うたた寝してしまった。尻に手をやるとフサフサとあったかな感触。うぅ、まだまだ私も修業が足りないようだ。 |