覇気なき旅よ! 億劫の細道 |
AQ! / septième 【CD】 |
[AQ!]■水田を見て、米を食らう___________________
むーん、、、
と2008-2009カレンダーを眺めるワタシたち。
好意的な暦だ、一週間は休みが取れるらすぃ。…となると、旅行の虫が疼き出す。
何処行こか?
年末年始は条件がタイトだ。
そもそも、年によっては、航空券があるかどうかも怪しいものなのだが、2008年は、この時点では、ユーロ高・原油高が死にそうであって、海外旅行の人気は無さそうなのであった。セーフ。
狙いの中心になるヨーロッパだが、広義の「クリスマス休暇」というものがある。12/23~1/6、くらい。場所により人により店により、なのだが、この期間は全部閉めてしまうというレストランも少なくない。フランスの真ん中辺狙いだと、気をつけた方がいい。
部分的に、クリスマス期間は閉めたり元旦周辺とか年明け一週間閉めたり、は、ほとんどの店がする。大晦日は値段が高過ぎて碌な店に行けないパリみたいな町もある。
また、さすがにこの時期は、高緯度になると、あまりに寒くあまりに暗い(明るい時間が短い)ということはある。
という訳でゼータクは言えない。
こういう時期は条件に合うとこで、「ホントに行きたいとこ一軒行ければよろし、っつかそれが大切」。
名簿上位からあたっていく所存である。何処かなぁ?
2009年、21世紀の最初のディケードもあと少し。この10年間の世界のレストラン潮流を眺めるに、誰かお忘れではありませんか?
いや、一度たりと忘れたことないのだが、遠くて行きつかんかった男がいる。
そう、デニアなるEl Pobletを率いる、21世紀の新料理旗手の一人、キケ・ダコスタ、その人である。
どうでしょう、エル・ポブレ。
クリスマス・大晦日・元旦は休み、とサイトにあるが、12/30などは開けてそう。
よっしゃ、メール、メール。メグスタリアリゼルバ、、、
予約げっとー!
デニアは、バレンシアから入ってバスで行く町。バレンシアにはそういえば、カ・セントなんて店もありますな。
レストラン取れたからにはいそいそとHISで航空券手配。
バレンシア便は、アバウトに言うと、
成田12.30→17.00パリ19.30→21.30バレンシア
みたいな感じ、さらにバレンシア空港は福岡空港のように市街地が近いナイスガイで、22時前には市内ホテルで寛げる。わりかし、いい旅程。
バレンシアまでの機内誌で、2008年のレストラン界を振り返っていた。そこでは、現代のスペインを代表する4軒として、フェラン・アンドニ・ロカ兄弟・キケ、が取り上げられていた。
料理界のフロントラインの牽引車、という意味合いでは、たしかにそんな感じなのだろう。
[へべ]
7:30前に家を出発。
スペインなのでめかしこむ必要もなかろうと着たきりでスーツケースなし、キャスターかばんの手荷物のみで行く作戦に。
AF便との都合で品川から乗るNEX利用。
チャウダー屋で朝食。
いつもながらNEXは爆睡。
出発フロアのカウンター・出国審査とも拍子抜けするほど成田はすいていた。ラッシュアワーを過ぎていたということ?
いつものタリーズ。コート預けサービスなどというのもある。
AF便パリ行隣席はマンUのサッカー見にマンチェスターまで繰り出すおじさんたちご一行。たのしそうな企画ナリ。
パリ着。乗り継ぎには余裕あったが2F(いつものフロのあるターミナル)から2Dまで歩くとけっこうな距離。
バレンシア便。機体ちっちゃい。やわらかめのレザーシート。
搭乗開始になるや、待っていた乗客たちがものすごい勢いで乗り込みはじめる。バレンシア(≒名古屋相当らしい、とのAQ!説)の人は「いらち」なのか?
そのせいかどうか早めの進行でバレンシア着。
TAXIでHotel NH Centerへ。エネ・アチェ・センテル(センターと言うと皆、不安そうに言い直す。。。)は市街のすぐ外、バスターミナルそばの便利な宿。
クリスマス休みでレストランはやってないがBar/カフェテリアならやっていたのでビールとロマランオイル風味の焼野菜(なす、ズッキーニ、トマト、赤パプリカ、葉玉ねぎなど)とハンバーガーで夕食済ます。
つまみに出てきたポテチが妙にうまい。
ハンバーガーは焼き方きかれる。メディオ・エチャ。
担当ニイちゃんがレストランの厨房に行って作っては運んでくる、完全一人きりまわし体制。テレビはナショジオチャンネルがついていた。
ニイちゃん、
「何しにきたん?仕事?」
あそび。デニアとか行こうと思って。
「えーっ。イビサは行かないの?いいよお、イビサ。デニアはねえ、シーン。トランキラメンテ。すげー静か。ねむくなっちゃうヨ。イビサならディスコあるし。むーちょエレクトリーク。ドゥンドゥンドゥンドゥン……最高だね」
と、最後に一杯桃のお酒をおごってくれつつ、おしゃべりした。
バタンキュウと寝る。
[AQ!]■Casa Carmina___________________
バレンシアに朝が来る。
小雨まじりの曇天。寒く陰鬱なヨーロッパの冬。
(後日談になるけど、辛気臭い天気は結局、この日と翌朝くらいだった。東京から持参したマフラー・傘が活躍したのはこの日だけ。後は、キャリーバッグの底の沈殿物と化した…。滞在中にバレンシアは最高18度まで上がりましたからにぃ(^^;))
さて明けてドミンゴ。敬虔なカソリック教のこの国は、店、やってないねん(^^;)。この事情はフランスと同じ。まあほんとに全滅という訳ではないけど、我々の主目的であるアルタコシーナに関しては、ほぼ全滅。何か考えないといけない。
調べてみると、日曜営業がチラホラあるのが、「米料理専門レストラン」。とくに、郊外店。なるほど、休みの日にちょっとだけおでかけして…というパターンか。
バレンシアは、ヨーロッパ有数の米生産地で、パエリアは本場中の本場。米料理店が点在するのも、バレンシア市の南、アルブフェラ湖近辺の水田地帯だ。
田んぼ眺めて米を食う、えーじゃないかえじゃないか…という訳で、日曜はアロスの日と決め、何軒か候補店データを持っていった。筆頭候補は、別冊専門料理でも大きく扱われている「Casa Carmina」かなぁ。月曜からのアルタコシーナ巡りでも米は出るだろうから、オーソドックスな基準点を確かめるにもいいと思う。
[へべ]
朝食desayuno @ レストラン。さすがにオレンジジュースはうまい。
風呂に入ってひとやすみ。
ちょっと散歩。
バスターミナル、美術館(明日行くレストラン・スクルサルのあるところ)など軽く確認。街路樹ほんとにオレンジ(まずいらしい)。
緑地帯のベンチのところでオッサンが3人、立ったままえんえんとしゃべっている。スペイン的光景。
[AQ!]
あの窪んだ緑地公園帯は、「リオ」と言って、ほんとにかつては川だったらしい。
[へべ]
エルコルテイングレスがあったのでヒマつぶしにのぞいてみた。
バレンシア民族衣装らしきコーナーにあったようなドレスを着つけた女の子が歩いているのを目撃。スペインの七五三か? 思わずカメラを向けたら、ちょっと得意げに立ち止まって、にっと笑ってくれた。
「カサ・カルミナ」
予約telその1→2時の予約を試みるが「だめ」らしい。どうダメかよくわからんのでフロントの姉ちゃんに頼んで
予約telその2→2時はいっぱいだけど3時半ごろなら空くと言ってるみたい。どう?
二つ返事でオーケー、めでたく席確保。米が食えるぞ!
バレンシアの米どころ、アルブフェラのEl Saler村にある家族経営のレストラン、米料理が自慢と聞いていく。
そぼ降る雨の中、タクシーを飛ばす。途中、港湾地区にそびえる超近代的な建物群眺める。
Ciudad de las Artes y las Ciencias (www.cac.es)→
運ちゃん曰く「テアトロだよ」。たしかにIMAXシアターなどある。水族館は欧州1でかいらしい。ふーん。
郊外へ出るとたちまちボーバクとした平地が広がる。「アロスの田んぼだよ」と運ちゃんが教えてくれる。
たしかに見わたす限りの水田地帯。ものすごい数の白サギだの小ガモだのがいる。やがて湖らしき水面も広がりだすと、アルブフェラ自然公園地区に入ったようだった。
El Saler自体は、自然公園だかキャンプ場だかの入り口近くの小さな村(町?)。
Casa Carminaは曲がり角に看板も出してて、外壁はきれいなブルーに塗ってあり、はぶりよさげなたたずまい。
click!→Casa Carmina
[へべ]■La Sucursal___________________
朝食どきは陰鬱なほど暗くてどんよりしてたが、午後(昼食後あたり)には晴れ間も。時々雨。
2泊したNH Centerをチェックアウト後、エルコルテイングレス(有名デパートチェーン)へ。昨日気になっていた民族衣装コーナーで、AQ!衣装用のベストを試着するとあつらえたようにぴったり! ますむらさん調の青とムラサキ系の花唐草模様で、これはばっちり、買い。
あとはIVAM(Institut Valencia d'Art Modern)で時間をつぶすだけねと向かうと、なんか様子がおかしい。入り口の修理かなんかやっていて、人気もなく閑散としている。おそるおそる様子を伺うと、レストランはやっている模様。OK!
[AQ!]
…ってやってなきゃ大変だヨ!予約入ってるんだし!
そう、今日のレストラン「La Sucursal」は美術館IVAMの中にある。グッゲンハイム・ビルバオ内のレストランのような感じだ。入り口は、IVAM本体の玄関の隣。スペイン正餐時間に則り(?)、14時予約。
ホテルNH CenterからIVAMまでテレテレ歩いて6分ほど。ちなみにホテルからバスターミナル(長距離バスはすべて此処から)まで約2分、El Corte Ingles(このTuria店はショッピングモールとも繋がっている)まで約4分。狙ったわけ…だったが、ほんとに便利な立地のホテルだった。観光中心でもある市街中心部までは、歩いて15~20分くらい。
[へべ]
レストランはやってるが、IVAM御本尊は
「セラードだよ。月曜だからね。あしたおいでマニャーナ!」
と工事のおっちゃんに言われる。
がちょーん。
しかたがないので空いた1時間半、IVAM以外何も無いと評判のバレンシア市街を散策。
15世紀だかいつだかの古い城壁/防壁のなごりのでっかい塔torresを再見。
[AQ!]
そう、前日にタクシーから見ていたのだな、この塔。
パチパチやってる多少の観光客、寝ているホームレス。
[へべ]
塔は、分厚い。どっしり。
セルバンテス像を写真にとってる日本人ぽいおじさん目撃。噴水が多い。水量も。
オレンジたわわ。植木の種類が南国演出っぽい。
黄色い低層建築の教会ぽいcomplexがありエルミテ的なことが書いてある。修道院? バニヤン?的な巨樹が枝を張り、遺跡のような列柱がぽつぽつ立ち並ぶ空間はちょっと独特の雰囲気、空気感。寺の山門のような屋根つき門もおもしろい。
[AQ!]
近くば寄ってよく見ると、Biblioteca Publica De Valencia…図書館でした。
元は、15世紀に建てられた病院だったらしい。
それにしても、図書館前の山門前の樹がデカい。この木なんの木気になる木じゃ(^^;)。
枝の張り出しが凄いのに、主幹はわりと細い。二人で手が回ってしまいそう。根が、地表に地下に、巨蛇の群れのように太く黒々とウネッている。
[へべ]
民族衣装ショップ2軒。ライバル店?が斜めに対決。
エキゾチックな、和服のオビとかチャイナ服に通じるムードもあるド派手な生地を反物から選んで仕立てるのが本格らしい。
誰がいつどんなとき着るんだろうか??
男性用もあり、ちょいエスカミーリョ調。ケープがかわいい。
[AQ!]
火祭りの写真見ると、みんな着てるゾ!
あとは、婚礼衣装でもある、、、のかなぁ?
そういえば、「バレンシアの火祭り」はよく知らなかったのだが、写真を見ると(→こことか…)かなり「アホな祭り」のようで、心を惹かれるものがある。けれど、その時期は"鬼混み"らしいので、見に来たい!…かは微妙(^^;)。
ちなみに今回、冬の年末年始は、バレンシア・デニアともに観光客的には完全にオフ。ガラガラ。ホテルもレストランも移動も大楽勝。
ワシらタイプの人には、オススメ(^^;)。
[へべ]
←「バレンシアはスペインの名古屋だ」説を裏付けるように、アチコチに、鯱鉾があり升(笑)。
本屋などもあるが見向きもせずIVAMへ戻り、いざLa Sucursalに入店。
click!→La Sucursal
夕方の街によろめき出る。
陽がさして、天気は明らかに良い方向に向かっている。
←いや、まぁ、だからナランハ(オレンジ)!
街中、全部、コレ!
今日はこの後、デニアまでバスで移動だが、出発の18:15までまだだいぶあるので、エルコルテイングレス近辺をウロチョロ(バスセンターと近接しているので、バスセンターで様子を伺うと、吸い寄せられる)。
超巨大食料品売場は楽しい! 用心の夜食…、も、多少買っておく。
スペイン的クリスマス商戦(笑)。
クリスマスギフトなどの特設販売会場テント、といったところ。ボーンサーイ(笑)。
園芸コーナーの一角に、かなりの数が売られている。また、後日、市内の露店や中央市場近辺などアチコチで売られていたところを見かけた。バレンシアではかなりポピュラーな存在?、「盆栽」。
木の種類は、ナランハをはじめ、土地の物からハーブまで、出鱈目(^^;)に広い。…のだが、土の盛り方や鉢で、なんとなく、Bonsaiに見えるのだから不思議、っちゅうか。
見てるとけっこう愉快だし、パッケージによる統一感があり、またこのパッケージは買って持ち帰りやすい。コレクター的心情にも訴えかけ、「アリ」だなコレ。もしかして、上手い切口でやれば、日本でも「アリ」かも。
ホテルに戻ってキャリーバッグをピックアップ、バスのエスタシオンへ。
バレンシア発着の長距離バスはすべてこの駅から。目の前にタクシー乗場・歩いてすぐに地下鉄turia駅、と、交通の要衝。
我々が向かうデニアはバレンシアから南へ100km下った海辺のリゾート。概ね、東京から伊東へ、みたいな感じだ。アリカンテとの間には鉄路(チンチン電車に毛がはえたようなのが3時間くらいかけてノンビリ走る)があるのだが、バレンシアからの交通は自動車オンリー。
Denia行きのバスは一日10便程度、10ユーロ弱。
バス会社ALSAのサイトwww.alsa.esで、インフォメーション入手は勿論、チケット購入も可(クレジットカード。座席指定可、プリントアウトで発券)。つくづく便利な時代である。
チケット買ってしまうにはどの便にするか決めなくちゃいけないし、たまに座席指定を見てもガラガラなので、予定決定は放りっぱなしにしていたのだが、1週間前くらいに覗いたらいきなり「残りあと3席」という状況(みんなやはり直前に決めるんですね)。慌てて購入。まあ実際には、「満席」になったら2号車が出るような気配だったけど。
プリントアウト・チケットは、乗り込む時に運転手のオジサンに見せるだけ。
←この辺のバスは、バックミラーが可愛い。
バスはデニアまで直行。
ディスプレイには、NEXみたいな「今この辺を走ってます」地図が表示されてる(いい加減っぽいが)。
かなりデニアに近づいてきた所で、バスはSAに入っていく。トイレ休憩か…。
「ほにゃらら……、トレインタミヌートス…」…、って言ったかも??
で、謎の30分トイレ休憩に突入。何が謎か、って、
●あと20分も走れば目的地に到着、の位置で、10分とか15分ならともかく何故に30分?
●このSA、トイレくらいしかない。何も無い。売店も自販機も無い。やることなんにも無い。
のである(^^;)。
しかしスペイン人たちは少しも慌てず、ワーワーガーガーペチャラクチャラクチャペチャ…、とお得意の高速連射お喋りモードに突入、バス内各所で盛り上がっている…。
日本人が、相変わらず田舎臭く意味がわからんが其処がいい国だよなぁ…、と深く諦めて…いるうちにバスはデニア着。20時半。
[AQ!]
デニアの街なかのバス駅。小さな海沿いリゾート町…のイメージ通りの雰囲気。
タクシー乗場にはタクシーが一台だけ…、は、目の前で取られてしまった。
バスから吐き出された人々…だが、「お迎えのクルマが来てる」のが殆どなのである。
タクシー乗場のボックス(?)横で屈み込むようにしてノートPCに集中する若者一人。ず~っとやってた。…ナンダロ?不思議な感じだったのだが、へべの結論は「盗電でしょ」。そうかも。
タクシー来ねぇな…で、目の前のカフェに入る。きゅっとカフェソロも飲みたかったし。
「で、セニョール、タクシー呼んでけれんか?」
「あ、其処(と顎で指す)がタクシー乗場だよ(知ってるっツノ)。待ってみれ。あんまり来なかったら電話してやっけど」
感じはイイ人なんだけど、やる気茄子。
まいっか、で、もう一度乗場で待ってみると、タクシー現る。
[へべ]
デニアの町には縁が無かった。夜にバスで着いて一台だけいたタクシーに目の前で行かれて、途方に暮れてカフェに入った(が結局役に立たず乗場で待って乗った)くらいか。道端でずっとノートパソコンいじってる若者がいた。盗電?
[AQ!]
宿泊は、Daniya Deniaという駄洒落みたいな名前のホテル。Daniya Alicanteという姉妹ホテルもあるので、駄洒落という訳ではない。
こちらは、明日行くレストラン「エル・ポブレ」の推薦。「オマエんとこ行くのにいいデニアの宿を教えてチョ」と頼むと、4,5軒の名前を送ってきた。「エル・ポブレ」のe-mailレセプションはなかなか親切である。この程度のことも教えてくれない…というのは、ママある。
「ダニヤデニヤ、行ってケロ」
「…?、ん、ダニ~~ヤ!」
伸ばして発音するらしい。
タクシーで5分、デカくて開放的でまずまず立派な、リゾートホテル。ホテル内カフェテリアで、目茶いい加減なセーナ。セルベッサとヴィノがあれば極楽さ。
部屋に戻る。空調を入れっ放しにしてる筈なのに、なんか涼しい。
まいっか…、と言って、補助毛布を一枚出してきて、寝る。
で、何も問題なかったのだが、翌日判明したところによると、空調故障により暖房効いてません!でした(^^;)。
この日は、それだけ暖かかったのである。
テレビの天気予報で「明日のバレンシアは最高18度」とやっていた。
■El Poblet___________________
[AQ!]
たいへんな天気になった。どこまでも突き抜ける空が青く、眩しい。「ほんとにヨーロッパの冬かよ?」
朝食食堂へ行く。やはりガラガラだ。デニアはこの時期のリゾート地では無いのだな→オススメだよん(笑)。それとも、サブプライムでぶっ飛んだスペイン経済の反映?
オッサンが、好みの仕立てで玉子を焼いてくれる。これがナンシカ趣深く見えるのだから、旅は楽しい。
[へべ]
春のような輝く好天! しっとり朝露に(あるいは前夜の雨に)濡れた草木がきらきら光り、あまりの気持ちよさ(と部屋の寒さ)に外へ出かけてずんずん歩く。[AQ!]
さて、本日のレストランは「エル・ポブレ」であるのだが、何処にあるかわからない(笑)。google mapやmichelinの地図など、幾つかのweb上の地図に場所指示があるのだが、ビミョーに違っている(結論で言うと、全部違ってた(^^;))。
勿論、小さい町であり、タクシー呼べばすぐだろう…ではあるのだが、「多分この辺にある筈」の位置はホテルから歩ける程度の距離。午前中の散歩をしたい頃合であり、「みつかってもみつからなくてもいいか」のウォーキングに出る。海岸に平行する(ワンブロック内陸に入っている)ストリートを流す。
通り沿いに目立つのはリゾートマンション群。優雅で閑静である。ただし、物凄い数の「Se Vende」(売ります)看板が目立つ。これは間違いなく、スペイン経済崩壊の証しなんだろうなぁ(^^;)。
広々とした公園、何もない的余裕…も優雅なり。海っぺたの町ですよー、という彫像。
[へべ]
ダニーヤから先は、新旧作りかけ取り混ぜリゾートマンションだらけ。不動産バブルの大はじけしたというスペインで、この先どうなるんだろうか?鉄板焼レストランFujiyama、バーガーキング、しゃれたヘアサロン、広い遊歩道、プールみたいないいかげんな噴水(バレンシア一帯はとにかく噴水が多い。あとレストランで水が必ずいるか聞かれる)、海岸に出る小径、砂浜の監視台、ビーチバレーのネット、
[AQ!]
公園の端まで来ると、海岸に出る細道があった。海を見に行ってみる。静かな地中海…コンニチワ。
…見回すと、…アレ、…どっかで見たことのある風景・見張り台。デジャヴュ?…いや違う違う、これ見たわ、「エル・ポブレ」訪問記を書いてた米人だか豪人のサイトで。
オー!
ってことは、この近くの筈だじょ、「エル・ポブレ」。かの毛唐は、早く到着し過ぎて、見張り台に昇って遊んでおったのだ。
公園端まで戻る(そこにあるレストランもなかなか洒落っぽい。この散歩時は仕込み時間で、女性シェフ…かなあ、が摘んだハーブの篭を抱えて厨房に消えて行った)。
で、その先を眺めてみると…、おお確かにあったあった、アレに見えるが「エル・ポブレ」やないかい。コス・デストゥルネル風のアホな尖塔に一本丈高い棕櫚。
どうやらこのほんの一画が“エル・ポブレ”という地名であるらしい。「スーパーメルカド・エルポブレ」「レストラン・エルポブレ」「レジデンス・エルポブレ」「クリニック・エルポブレ」…と並んでいる。
[へべ]
トラディショナルレストラン(小ぎれい)La Cucina、エルポブレという名のスーパー、店センター、クリニック、朝つぼんでたオキサリスの花が、昼下がりには満開で春のお花畑気分だったり。
ホテル・ダニーヤとエル・ポブレの間は、結局、2.5往復した。10kmくらい? ちょっと内陸寄りなので海はごくたまにちらりとしか見えないけど、概念上は海岸道路のひたすら一本道。その道の上では「(デニアの)町から○km(くらい)」で位置を表わす模様。エルポブレの所在地も「2.5km」とか「3km」とか諸説あり、スペイン的にテキトーな運用みたいだ。昼食終えて、夕方、部屋に戻ると、エアコン修理の工事中。フロントの彼女が大あわてで呼びとめてたのはコレだったのか(修理が済んだ、と言ってたのかと思っていた)。朝、クレームを伝えたら昼前には電気ヒーターを入れてくれてて、それでも十分あたたかったのだけど。
夜のフロント当番の陽気な姉さんは(AQ!によれば「すげーヒゲが生えてる」)、AQ!のパスポートをコピーした上で、PCに「中国」と登録してあったことがチェックアウト時に判明。お勘定するのに修正するのが必要なシステムが組まれているらしく、たまたまPCの操作になれないスタッフしかいなくて大騒ぎ。
[AQ!]
データ修正の間、ネーサンとべしゃり。
「そうよ、中国人じゃないわよね~」
「Sukyo Mahikari…って、知ってる? Good?」 …えー、名前くらい知ってるけど、Good?って聞かれても、知らんぜよ(^^;)。
ネーサンは名古屋と東京には行ったという。I love Japan! だと。
click!→El Poblet
■Casa Pepa___________________
[へべ]
夜に着いて2泊した「ダニーヤ」デニアを後に、タクシーでオンダラのカサ・ペパへ。
イモ絶品。スペインのイモの旨さと豆の旨さには、今回あらためておそれいった。
なにしろカフェテリアでつまみに出るポテトチップスが旨い! イモのうまみがはっきり感じられて、新鮮で、食べだすとちょっとやめられない。NHホテルのミニバーのポテトすらそんな感じ。ホテル・ビラデムーロのバー夕食もポテチで済ましたし。最終日夜のティモネルなんかレストランなのに突き出しはポテチ。…と思ったら、帰路バレンシアの空港売店で「グラン・セレクシオン」(だっけ?)とかなんとか銘うって麗々しく箱詰めにしたポテチが、地元バレンシア物産のコーナーに堂々と並んでいた。市場の乾物屋にも無印ビニール袋に詰めた自家製ポテチがどっさり売られてたし、もしや名産?
もちろん、ぱっきりメガネの似合うペパおっかさんのクレマ・デ・パタタも絶品だった。
マメ文化。もうひとつ、これはバスクあたりからうすうす感じていたことだが豆もものすごく豊かで美味。バスクで“発見”したのはギサンテス(えんどう豆)で、カタルーニャでも確認済み、今回もアミューズで遭遇した。さらにバレンシアの旅では、カサ・ペパのアロスメロッソのひよこ豆(ガルバンゾ)やエル・ティモネルのパエジャの白くて大きなインゲン豆かそら豆(アロス・カルドソに入れる定番のマメ、なんだっけ…)の煮込み料理での活躍にびっくり。たぶん乾物をもどして煮るタイプなのに、粉っぽさがほとんどなく、ぷちゃぷちゃと言いたいようなみずみずしさがものすごく魅力的。
あと、レスカレタでキコ・モヤの出してたイカ(カラマリ)に添えられたちっちゃなソラマメ。市場で八百屋のおじさんがものすごい勢いでむいてたのも見たが指のツメくらいで、甘くみずみずしい。
エル・ティモネルのバレンシア風パエジャにどっさり入っていた、太い幅広肉厚インゲン豆みたいな、さや豆もおいしかった。よく食べるみたいで市場でも各種さや豆ばかりずらりと並べてあったりする。
click!→Casa Pepa
[へべ]
カサ・ペパを出てタクシーでアルコイのホテルVila de Muro(ロビーに置かれた2体の兵馬俑(の兵士像)はいかがなものか…)へ。
道中、岩山がすごい!段々畑がすごい!山が深い!などと時々思っては発作的にシャッターを切ったりしながら車内で爆睡。いつの間にか到着していた。
レセプショニストのガブリエラは小顔の美人で、三国一の働き者。ごちゃごちゃ話しかけてくる男どもをあしらいながら、てきぱきとCheck-in。
翌朝は「レスカレタに行くの?まあステキ!」とか言いながら、元日から営業しているタクシーをさがして片っぱしからリストの運転手にTelしては憤慨したり…、最後にはガッツポーズも出たという(AQ談)。
スペインのアホなお笑い特番(推定)を見ながら年を越す。人々は明け方まで大騒ぎしていた模様。
click!→L'Escaleta
Valencia駅前ホテル Zenit。ケバブで夜食。
■Ca Sento___________________
市場・露店を散策。
Mercat Central 写真集
■最終日___________________
click!→Ca'Sento
click!→El Timonel
朝4:40TAXI。バレンシア→パリ→成田
2008年11月 岐阜 三重 名古屋
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2008年 9月 八ヶ岳
|
2008年 8月 ベルギー ■序____________________ [AQ!]■忘れられてる、フィンランドとともに___________________ …、いや本当は逆ですが、モンティパイソンの「フィンランド」の歌詞の一節であります。 ■パリ、ブリュッセル、アントヴェルペン___________________ [へべ]■Herbert Robbrecht___________________ click!→Herbert Robbrecht■Grote Witte Arend___________________ click!→De Groote Witte Arend■De Pastorale___________________ click!→Pastorale Restaurant■Kulminator___________________ click!→Kulminator ■アントヴェルペンからブルッヘへ___________________ [AQ!]■De Karmeliet___________________ click!→De Karmeliet ■Brugge, Erasmus, Sluis___________________ ブルージュ。ホテルアカデミーに朝が来る。■Oud Sluis___________________ click!→Oud Sluis ■スルイスからヘントへ___________________ [へべ]■Hof van Cleve___________________ click!→Hof van Cleve ■Stropke___________________ ヘントマリオット 豪華な部屋を満喫 ビアカフェ物色 ミニ市場 ■ヘントからブリュッセルへ___________________ トラムで駅へ ロシア娘 けっこう混んだ ブリュッセル中央駅 ■カンティヨン醸造所___________________ ボクらも大好きCantillon…の醸造所は、珍しいことにブリュッセルの街なか、ミディ駅から徒歩5分ほどの場所にある。 ■Comme Chez Soi___________________ click!→Comme Chez Soi ■ベルギー雑感__________________ [へべ] |
2008年 6月 厚木・広沢寺温泉
click!→昼食は『タベルナ・ラ・メッセ』 |
2008年4月 鹿児島
ちょっと難し目の今年のGW、ユーロ高もあって、海外計画は挫折。 鹿児島に行って参りますた。 なんでだか、鹿児島。 ほとんど衝動的思い付きみたいなものだが、一つには、我が家的“経県値”が圧倒的に低い土地で、面白そうだから。 なにせ、へべは「初めて」の県なのである。 私も、20年ほど前に足掛け3日ほど鹿児島市内にいただけで、これは多分、全都道府県中で最も縁遠い。 勿論、「かねてよりの懸案:是非とも訪ねたいとこ」メモもあった。 ずばり言うと、「妙見温泉石原荘」と「Ristorante CAINOYA dal 1931」である。 「この2軒の予約が取れたら、GWは鹿児島にしよー!」と一決、手を回してみると、なんとかゲット(石原荘はよく取れたな(^^;))。 JALのナンタラ割なども手配。 その後くらいになって、今年は鹿児島が「篤姫ブーム」…ってか、NHK大河系の観光地賑わいになってるのに気がついた(^^;)。 ま、実際には、彼の地に行ってもたしかに「篤姫篤姫…」と騒いではいるのだが、観光客が多いんだかどうたかはよくわからなかったけどね。 さて当日。 GW前進行で疲れていたのでゆっくり出かけたが、電車乗り合わせがよく羽田に思いがけず早く着き、何とか「天政」でお昼がいただける。らっきー。 満席の飛行機。鹿児島空港…市内から遠いのね(^^;)。バス。天文館。 わけワカな子供や大学生の群舞。「おーここにもヨサコイソーランか」と思ったのだけど、ちゃうんやて。「大ハンヤ」。 鹿児島ハンヤ節由来らしいけど、まー、南のヨサコイソーランですな。 照国神社のすぐ前、「中原別荘」が今日の宿。まあ市内便利ロケーションの、ちょっとシャビーっつか古ぼけた宿。…だけど、温泉で、しかも掛け流し、この場所の湯としてはなかなか良い。 せごどんの銅像がでかい。 その近くに、「Ristorante CAINOYA dal 1931」はある。 Ristorante CAINOYA dal 1931 *新玉ねぎのパンナコッタ ピスタチオのオイル ミントの香りで *パルミジャーノレッジャーノのクロッカンテとクラテッロ *えんどう豆とフィノッキオのズッパ ティエピド ハマグリと筍・緑アスパラとともに *季節のアンティパストミスト 北海道産水ダコのカルパッチョ トマト・空豆・水菜 鯵のエスカベーシュ 森下さんのアスパラと筍・人参葉のフリット バスク豚のサルシッチャ ルーコラ・マスタード そら豆と緑アスパラのスフォルマート *桜肉ラグーのピーチ *1年熟成有機カルナローリ米のリゾット“かいの家ハヤシ(伊万里牛)”ソース *自家栽培無農薬野菜のインサラータ *大隅三清屋黒豚肩ロースのビステッカ 森下農園緑・白アスパラ、ルーコラ *ショコラのソルベット *苺のセミフレッド、メレンゲのジェラートにショコラのムース *クレームカラメル、小菓子 +NV Opere Brut (glass) +97 Il Primo dei Vini +03 La Tosa / Guttunio (glass) 最近、気になってしょうがなかった店。 何がそんなに魅せるんや、ってのは、 http://www.cainoya.com/ をご覧あれ(とくにブログは面白い)。 勘のいい食いしん坊はきっと「Fujiya 1935」を思い出すでほ? それはある意味大当たり、Fujiyaと似たようなパターンで(しかも4年も古いぞ(笑))、こちらは当主三代目になる食堂なのである。 あとで塩澤シェフに聞いた所、祖父の代に甲州からやって来たとかで(それで)「甲斐乃家」を名乗り、寿司・うどん・ぜんざいから洋食まで手がけて大層繁盛したらしい。父の代には「かいの家」として和食店。 それが何をとちくるったか(笑)、当代は本格的トスカーナ料理店を立ち上げるに至るのである。 城山の麓、静かでちょっと洒落たエリアの半地下、サイトで見た通りのクーーール!な設えが佇む。 ゴニョゴニョっと入り込む、先客3卓ばかりか、ほほお落ち着くね、とか言ってるうちに笑顔の美味しいカメリエーレがやってくる。これがNクン、なかなかに素敵で優秀なのじゃ。いやホントに気に入ったのだけど、渡伊のため、お店は今月までなんだって。 美人のマダムも感じイイ。 一通りお品書を眺めてから、「旬のおまかせ」的コースに。おまかせと言っても、ラグーは何にしましょ、お肉は…、とご相談コース。 面白いのがプリモその2、で、オーソドックスな数品と「これだけは変化球になりますが、(先代)「かいの家」風のハヤシのソースのリゾット、という物もあります」との口上、これを面白がるとする。 ワインはNクンにぶん投げ。6本くらい並んだところから、97 Il Primo dei Vini(素晴らしい!)。 サイトで、ヴィナリウスと仲いいなと思ってたのだが、ワインは殆どヴィナリウス扱いみたい。俺らもタラちゃんのワインは好きですけん、グー!だに。 新玉ねぎのパンナコッタ、よおしオケ! と二人で隠しガッツポーズ。 いや、サイトと噂で期待はしてたけど、やっぱ、食うまではわかりまへんからね(^^;)。今宵は楽しめそうだぞ。パルミジャーノはボナーティ4年熟成。 野菜が素晴らしい。 多くが自家農園の無農薬で、シェフ父君が丹精している。 「どうも野菜は長旅をするとイケナイものが多いような…」のシェフの弁は、日頃ワスらの思うところに合致。とくにイタリア料理の調理だと如実に出やすいのよね。 オテイザのバスク豚のサルシッチャが凶悪。うめ! Il Primo dei Viniに合いまくる。死ぬ死ぬ(笑)。 吹上なる「アスパラ屋仁左衛門」森下さんのアスパラがスーパー食材その1。緑も素晴らしいが、 「へへへ、今年はまだ試作で一畝ほとんどCainoya専用なんです」 の白アスパラにはマイッタ。記憶にある限りのトップクラス。 http://www.rakuten.co.jp/nizaemon/owner.html 前後で豚なので、ラグーは桜肉。シェフは、ラグーのピーチがやたらと好きらしい、ってか、まずは(プリモは)「俺のこれ食っとけ」みたい。言うだけあって、麗しい。 ちょい細身だがママミアにくねる。サルシッチャやピーチは、みんなやるけど、意外に顔が出ますですな。 ハヤシ2代。父君レシピを3代目が改良して、賄いで食ってたらしいけど、「これはアリか」となったらしい。色調で言うと赤資生堂タイプ、洋食屋やっても当たるでしょう、美味。 スーパー食材その2は、純粋六白黒豚の極めつけ。鹿屋で一年飼育の放牧(笑)豚を作っている三清屋。 Nクンによると「えらく足が速い」そうな(^^;)。 これがまた凄い。極めて豚らしく、かつ豚離れしておる。強く濃く、優しく綺麗。 ビステッカの焼具合すばらし、肉質がストレスフリー・調理もストレスフリー。 http://www.minc.ne.jp/~sansinya/ 「フツーの人よりは幾分多く食らいます」と言ってあったせいか(迷わしい所だが、言ってないと、地方だと信じられないくらい“チョンボリ”しか出ない店もあったりするので…(^^;))、ここまでえらく“ゴチャマン”と巨量が出てきての阿呆食いになったが、しかし、食べ口は相当に軽い。 食材と調理が、そうとう、“効いて”ますな。 色々とセンス良いのだが、カトラリーが凝っている。あまり目にしないものも。ランファン・キ・レーヴでしか見たことのなかったお馬鹿なクトーに再会。ランファンは、馬鹿クトーで鮎を食え、と無理なことを言うが(笑)、ここではフロマッジョ用なのでオーケー。 Akaya Coffee 2日目朝。まずまず晴れ。桜島どーん、薄霞。 ぶらつき歩きにはまことに佳き天気。 当地のデパートは山形屋。昭和初期の外観に復元されてるとかで、なかなか恰好よろし。 さて珈琲でも。 ざっと検索したとこでは、VoilaとAkaya。 場所と営業日の都合で、結局、Akayaに二度行くことになったけど、Voilaも覗いてみたかった。Cainoyaの塩澤シェフも「Voilaは是非」と言ってたし、Voilaのバリスタは、2006と2008のジャパンバリスタチャンピオンシップで優勝しているのだ。次回の宿題。 Akayaさんは山形屋のすぐ近く。 2007カップオブエクセレンスなるコスタリカ・ラ・ローサにゴッドマウンテンダムリアットなぞを。まことに結構。 市電のある街は好き。鹿児島では、線路敷設部分に芝が植えられていて、緑が綺麗じゃ。 お昼はその市電に乗って、騎射場を目指す。昔、薩摩藩の騎射場だったっつんだが、大層な地名である。 そこにフランス料理「ル・ガヴローシュ」がある。 鹿児島市のフレンチは、よく名前のあがる「ア・マ・ファソン」やエリタージュの上柿元さんがプロデュースしている「ミディソレイユ」(港のドルフィンポートにあり、少なくとも雰囲気は良さそう)などなどあって、検索者(^^;)にとっては“決め手”には欠けるのだが、評判の面白そうな「ル・ガヴローシュ」に寄ってみることとする。 Le Gavroche 天文館付近の繁華街を抜けること市電で7駅ほど、騎射場に着く。 冷静な町並、大通りから区画へ入ると、冷静な程度の生活感。 知らない町をクンクンやってるのは楽しいが、うーんどんなかなぁ、お屋敷街とは言わないけどまずは裕福そうな層の落ち着いたエリアですかのぉ。 時たま見受ける飲食店や雑貨店の小洒落た感じ。 で、なんかね、天文館付近も、地図から受ける印象よりコンパクトなんだけど、騎射場近辺も迷わず行けよ((C)猪木)、あれま何だかすぐに目的の「Le Gavroche」が見つかってしまった。 まだ11時半。 「Le Gavroche」に予約を入れた時、「お昼は何時からすか?」と問うと「12時より後だと助かるのですが」とのお答えだった。 アバウトっちゃアバウトだな(^^;)。 11時半じゃ、悪いな。 散歩。 あ、ところで。 鹿児島はさすがに西なのである。 まぁ何軒も調べたわけではないが、けっこう、飲食店のディナー営業が18:30から、だったりするのである。 日本国内の時差だ。平和台や広島市民の夏のナイターの明るさよ。 散歩。 …って、猫と遊んでる場合かよ>へべ HOSHIZAKI NANKYU…、かなぁ、って看板があっちに見える。 行ってみると、ホシザキの南九州支社であった。 鹿児島は、「南九」とか「南国」とか、つくのである。 空港バスが出てるビルも、「南国日本生命ビル」なのである。 ホシザキの先に、異人館跡・商船学校跡、など。 鹿児島大の管轄の国際交流グランドかなんかになってる。この辺りは鹿児島大お膝元か。 などあって「Le Gavroche」。 ご夫妻2人で営む感じ。 謎の楽しいマダムが采配を振るう。 とくにソレとは感じさせないのに、この昼の客4卓だっけかな、ほぼ同一コース同時スタート。ワザ…というより人徳でせうか。 テラス席の隣は、フランス人連れで、連れてきたオバチャンは「20年前には鹿児島にはフランス人なんかいなかった」と強く主張する。 んなこた、ないよーにも思いますが(笑)。 などの主張が賑やかなので、マダムが、「奥のサルに移りますか」と聞いてくる。 俺ら、隣が五月蝿いのはぜんぜん平気なのだが、奥の方が内装雰囲気がイイ感じっぽいので、移動。 *野菜ニース風テリーヌ、タチエビ・小イカのソテ *指宿産うすい豆のスープ、クルトン *鹿児島牛のブレゼ、アリコヴェール・キャラメリゼ人参 *ブラマンジェ苺ソース、苺ミルフィーユ、グラス 料理は、芯のぶれない本格派、オーソドックス・ビストロなスタイル…かな? まあ夜はまた違うかもしれへんけど。手応えがハッキリあって美味。 ニース風テリーヌってのはラタトゥイユを固めた感じで濃味で良い。 うすい豆、は、えんどう豆の一種、ね。 東京で言うと、(無理矢理な例えだが)オーバカナルとカスケットの中間くらい、って感じか? もしくは、キノシタのヴェラ時代とか。 グラスワイン2杯ずつ飲んで7000円台だっけかな、安し。 鹿児島中央駅へ向かう。次はJRじゃ。 隼人そして霧島へ 鹿児島中央駅。 東京の非鉄人だとうっかりしますが(笑)、新幹線駅でもありまふ。 現在でも博多~鹿児島は所要2時間10分で東京非鉄のイメージよりずっと近く、新幹線全線開通時には1時間20分となるらすぃ。 ま、今日のワシらはチンタラ鈍行で40分、「隼人駅」まで行くだけだけど。 鹿児島は銅像の町。いや、ワシらが勝手に言ってるのだが。とにかく、町中に偉人が溢れている。石を投げれば偉人に当たり、犬も歩けば偉人に転ぶ。 中央駅広場の、人がワラワラと林立している銅像は中でも壮観で、なんじゃこりゃと見るに、薩摩藩英国留学生をモチーフにした『若き薩摩の群像』…なんだと。 駅の階段に腰かけて油売る人、多数。南国の休日(って認識でよいのだろうか)。呑気。 錦江湾を巡って電車は進む。ブリブリと存在感を示す桜島の裾を、そろりと回りながら。 さすがに鹿児島、みんな、「桜島をホニャららから見るとフニャららで…」みたいな話は、よ~く、語る。 目的地は、「妙見温泉石原荘」。 温泉ファン垂涎の一軒・その泉質は全国に名を轟かす、、、という訳でワシらも死ぬまでに一度は漬かりたいと馳せ参じた訳だが、この妙見温泉というのは住所で言うと霧島市隼人町になる。 つまり、地図で見ると一目瞭然なのだが、ワシらは 鹿児島空港→鹿児島市→妙見温泉 という日程で動いたのだが、これはタイヘンに頭が悪く、 鹿児島空港→妙見温泉→鹿児島市 と描けば綺麗に一筆書きになる。 「そんなことにも気がつかずに日程を組むな」とは言えるが「そんなことにも気がつかないくらい慌てたから予約が取れた」とも言える。 JRで妙見温泉へ向かうには「隼人駅」で降りる。 ここからタクシーで3000円程度の距離らしいのだが、「石原荘」宿泊者は、シャトルタクシーを使うことが出来る。宿が手配してくれる小型タクシーで1000円ポッキリなり。感じのいいサービスである。 駅の改札を出ると、「イシイ様」と書いた紙を持った運転手に迎えられる。…ってのが、香港半日観光付きツアーみたいで、ナニですが。 「隼人駅」は竹と暖簾のデザインで、銭湯みたいな外観がかわいい。 鹿児島市内もそうだが、隼人も、つぶれたお店・つぶれかけのお店…の類がチラホラと見受けられる。今の、日本の地方はタイヘンだよなぁ、、、 妙見温泉石原荘 http://www.m-ishiharaso.com/ タクシーは30分ほどか、「川沿いに山の中に分け入る」という山間温泉定跡に従って進むと妙見温泉。深山幽谷ってほど深くはないんだけど、イイ感じに山中。 石原荘は、イマドキの現代化和風作りが上手く行ってて、落ち着いてモダンな佇まい。 サービスも、現代的見つめ直し以降のトレーニングを感じる気持ちの良さ、主線が身体の軽そうな若者たちなのも好き。 あ、身軽ってば、ワシらの部屋は4階だったのだが、小さいエレベータに案内される。そこまで案内してくれた若者が「4階になっております」とか言ってボタン押してくれる。4階に着く、扉開く。…と、その、同じ若者が扉前でニコッと待っている、という趣向。身軽な奴だ、可愛いね。階段を駆け上がっても、息がアガってないのが、ナカナカ! 自称「妙見のニンジャ」らしい(^^;)。 部屋は、10帖+6帖もある。広すぎて居場所がない(^^;)、…と相変わらず貧乏性マルダシのワシらであるが、箱根伊豆とかに比べると、高くないんだよねー。 川をはさんで対岸に茅葺屋根が幾つか見えるのが、これもまた名高い「雅叙苑」であるかな。 さて、温泉。 敷地内に、自家源泉が4本ある! ひゃっ。基本、炭酸泉だが4種微妙に違う。 自噴する温泉にそのまま客を漬けてやれ…というポリシーの徹底が凄い。源泉から出来る限り近くに湯船を設けるかけ流し。56度の湯を、熱交換器で入浴温度に下げる以外には何も手を加えない。湯船の大きさは、1ターン/hを守る…つまり、1時間で湯船一杯分の湧出。湯守さんは専任。 と、ここのとこの温泉理想論をそのまま実践してるのが偉いが、またこれが、「入るとわかる!」のがスゲイのよねー(^^;)。 なにせ、源泉の場所がオフロ…なので、宿泊棟から各風呂まではブラブラ数分歩いて行く。この屋根付きアプローチがなかなか風情あり。 飲泉場で一口いただく。ワー、複雑。絡みあうミネラル。ラフォンをラヤスで割ったみたいだ(?)。 一番奥が、「椋の木」混浴露天。此処は深夜にしようか、とか言いながら偵察に行ったのだけど、ちょうど、誰もいないので、えーいと突入。 ほんまに河原の露天で、「丸見え」とは言わないが、見せようと思えば、対岸や川沿い道路からご覧いただけるワシ。…じゃなくて(爆)。 ここの炭酸の溶け具合はすんばらしー。地球の胎内から湧き出した炭酸が大気に出会って大きく呼吸をし始めたような。 俺らは温泉が好きだなー、と改めて思うのであった。 嬉しくて、身体全体でバタバタ(^^;)。 身体が芯まで温泉色に染まって、部屋に戻ってゴロチャラ。 メシ前にもう一風呂(何せ、その為にかなり早めにチェックインしてるもんねー(^^;))は、「七実の湯」貸切露天。所謂、家族風呂。宿泊客に、1組30分ずつ入浴「枠」がある。予約時間は早いもん勝ち。「眺め」を考えて、陽のあるうちにする。 こちらは、囲いがしっかりあるので、周辺の人民に、ご覧いただく訳にはいかない(…それはいいって(^^;))。 こちらの泉質は、更に濃いような部分もあるのだがエレガントな入り心地。 囲いのある・無しで、風景の見え方の風情が違うなー…などというのも面白し。 石原荘の食事 夕飯。 温泉のメシっつうのも、レトロな宿だと往々にして、朝夕ともにやたらと早い時間帯固定(夕は18時・朝は8時、とかさ)でシビレルのだけど、そこいらはモダン化旅館の石原荘、余裕ある時間幅での提供である。我々も合わせられる。 提供場所は、部屋食の設定もあるらしいが、ウチは新館食堂にていただく。 宿のメシは、部屋食より食堂型が好き。部屋で食べるのの利点って、ナイターや格闘技中継をテレビで見ながら食える…ってくらいしか見出せない(^^;)。あ、仲居さんがいない間は横になっていられるのも利点? しかし、まだメシ食ってる間には横にならんよな(^^;)。 19時。辺りはやっと暗くなり、日没。当然ながら、鹿児島は東京より随分と西であることだなー…と実感。 渡り廊下から「石蔵」という名の新館の食堂に行ってみると、こちらの作りは“穏やかモダン”どころか“バキっとモダン”な感じで、デザイナーズレストランかよ!スタイルである。 ザックリと大きく石・木・ガラスを配置する基礎組みに、変わっているのが「間仕切り」で、和食器を重ね合わせた間仕切り、古民具を組み上げた間仕切り、郷土玩具を積み上げた、レトロカメラを並べ上げた、ランプを、人形を、、、と、存分に遊んでいる。 けっこー上手くキマッていて照明のキレもあり、好印象。 +一献 白酒 *卯の花和え きびなご *よもぎ豆富 ふき味噌 *鯛の桜蒸し 山葵 *のぼり鰹たたき *伊勢海老造り *しろ魚玉〆 若布 木の芽 *薩摩地鶏串焼き 酒寿司 *黒豚と馬鈴薯博多 *葛冷製 *和牛ロースト クレソンソース *鶏飯 *タンカンゼリー寄せ *みつ豆 気が利いていて美味しく、まずは申し分なし。 アペリティフの白酒はミルク割カクテルになってて飲み易い。 ビールで乾杯の後は、割高ではあるがワインも多少の用意があるので、そちらへGO。 いやーしかし、ワシら、地方に旅行して、「地の物」を食って万歳!する…のはその通りなんだけど、実のとこ、「“ゆーめー”な地の物・土地の名物」を食うか?という点に関しては大変に微妙なのである。名古屋行って海老フライ食ったか?と聞かれて困るのである。自分たち的には筋が通っているのだが、知人に「何処行ったの?…ああ、じゃあホニャララ食べたの?」とか聞かれると大変に微妙なのである。説明に窮するのである。食のマニヤ(^^;)的視線と一般的の視線の交点は曖昧なのである。 …のだが、石原荘の↑こーゆー薩摩コースを食っておけば、日本語でおK。\(☆〇☆)/ 「きびなご食った?」「食ったー!」 「薩摩地鶏食った?」「食ったー!」 「酒寿司食った?」「食ったー!」 「鶏飯食った?」「食ったー!」 「黒牛食った?」「食ったー!」 夏休みの宿題、一気に消化じゃー!…って感じ(^^;)。 こんだけ押さえておけば、成田の記者会見も怖くない…って感じ(^^;)。 …とつまらんことを喜んでいるが、なかなか此処のメシは悪くない。 キビナゴなど、“おしるし”くらいの量なんだけど、そこが上手い。 そういえば、キビナゴは、季節っちゃ季節っぽいんだけど、後日行った焼酎バーでも店によっては東北産を使ってたりしてたとこを見ると、不漁なのかなぁ? 鹿児島はまたボクらには上手いことに、鶏・豚・牛…と「お肉サイド」にも演し物が揃っておるので、ワインでダラダラやるのがひじょーにラクである。 あ、ところで、鶏飯は、奄美名物の鶏飯だす。鶏のダシ茶漬パパイア入り…みたいな奴。 部屋に帰る。 なんたって、篤姫だからのー、「篤姫学習セット」がサービスされてんのよー。書籍・ビデオ・DVD。 「大奥」を見る。浅野ゆうこに、笑う…じゃなくて感服つかまつりまつた。 朝メシも食堂。 快適な現代型。 朝メシ、何に卓上火力を使うか?が意外と区々で面白い(湯豆腐・干物・味噌汁・小鍋…)のだが、こちらは、「海苔」でした。海苔を炙って食う。ほほー、これもいいね。手作りざる豆腐もチャームポイント。 黒酢の里へ 1000円シャトルタクシー、隼人駅。 本日は城山観光ホテル泊なので、このまま鹿児島市内に戻ってもいいのだが、時間はある。 実は前日、鹿児島駅でみかけたポスターで思い出した「鹿児島といえば黒酢」…のことが気にかかっていた。黒酢の里は霧島市福山町、遠足にはちょうどいい距離とも言える。 ちょっと見学に行ってみることとする。 隼人から日豊本線で、隣の駅・国分へ。駅前で一休み。 (『カフェ・エトワール』でオムカレーランチ) ここから垂水港行きバスに乗り20分、小廻で下車。 バスを降りて、山の方向にちょっと歩を踏み出すと、もう、あちらこちら一面に、インスタレーションアートのように黒酢の壺が並んでいる。 ズラ~っと! おー、ミニマリズムじゃ。スティーブ・ライヒじゃ。…と騒ぐ。 おー、メンヒルじゃ。アリヌマンじゃ。石になったローマ兵じゃ。…とも騒ぐ。 兵馬俑じゃ。…とも騒ぐ。(笑) 色んなもんに見える。不思議な光景。とても楽しい。 辺りは、ひたすらに、静か&のどか。 足をのばした甲斐があったというものか。 ← さらに山に向かう坂道を登ると、小高い位置に、坂元醸造の黒酢資料館「壺畑」がある。 なかなかにクールな造りの、ちょっとした黒酢博物館。 www.tsubobatake.jp → 幾つかの壺の蓋の上に、石などが置かれている。 多分、醸造担当者の目印。 壺ごとの黒酢の生育状況のメモでしょう。 ***** 鹿児島に戻る。城山観光ホテル、併設の城山ブルワリーのクラフトビールも飲める。 『福わらじ』 *さつま黒豚コース つぶ・山芋梅肉・青豆、つくり 黒豚しゃぶ:肩ロース、バラ、くず、豆腐、白菜、椎茸、えのき、しめじ、人参、ニラ、水菜、ぞうすい : 満席の… / IH。重い鉄鍋。 / 雑炊の前、牛蒡でアク取り&味出しし、回収する。 天文館『焼酎 酒々蔵』 *サラダ・地鶏 +黒伊左錦 : 社長と若者。アイメーク。外は大衆居酒屋、中は落ち着いたバー(笑)。ゴルフおやぢ。 千日町『焼酎Bar 蔵人』 *肝・茸 +森伊蔵、いにしえのいろは歌 : 落ち着いたソムリエール。川崎うんちく。 ウヒョ~(^^;)って感じの「軍国酒場」。 (後日追記:この天文館で54年続いたが、ビル老朽取り壊しで2017年に移転したらしい) click!→昼食は『Cainoya』 市電線路と岩田屋…なかなかヨーロピアンにも見える風情。 click!→夕食は鹿児島空港『キッチンさつま』 |
2008年 2月 北海道
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2008年 1月 庄 内
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[へべ]■Pinxo___________________
新宿ー日暮里ースカイライナー成田ーパリ
サン・ラザール駅前ホテルLondres-NewYork
いつもより少し遅めの午後着パリ便でNEXの折り合いが悪く、久々のスカイライナー。十分早めに成田着。エールフランスのカウンターもガラガラ。昨日は大混雑だったんだろうか? タリーズで小一時間ほどつぶしてゲートへ。出国審査は待ち行列ゼロ。いまだかつて見たことがないほどすいてた。
機内はほぼ満席。食前シャンパーニュ。夕食(昼?)の前菜(ロシア風サラダ)とデザートのふたがとられていること、パンはむきだしのフランスパン小をかごでサーブする、カトラリーが金属製、なのがフランス調? ラタトゥイユ(レミーのすてきなレストラン)と久々の上海(AQは3,4,5回、へべも1回は上がった)でひまつぶしつつ、うとうとする。わりとよく寝た。
CDGへは10分早く着いたらしい。入国審査コーナーの大行列は工事中のせいか年末お休みシフトのせいか。ターミナルと建物の間は羽田みたいに左右ホームから交互に出るシャトル移動になっていた。
なかなかポツリポツリとしか出てこないバゲージをそれでもまあまあの時点でゲット。これまたかなり久々にTaxiでパリ入り。ドライバーの女性はタイ?ベトナム?中国?ずっとケータイで話しどおしだがホテルは知ってた。
Hotel Londres & New Yorkとはフザケタ名前だが駅向かいの便利なホテル。フロントはぼんやりもっさり頼りなさそーな兄ちゃんが番をしている。ピンチヒッターのバイト? 明日チェックアウトね、と確認のついでに「で、それで日本に帰るの?と2回聞く。
221号室。エレベーターは極小タイプ、らせん階段は明らかに中心下がりに傾いている。部屋はエクストラベッドで3人使用可のムダに広々とした豪華版。チェックインしてTVつけたらキヴガニエデミリオンをやっていて、笑った。
Vendome広場そば Pinxoへ。
click!→PINXO
ノンストップ熟睡してたら真夜中にめざましのベルが鳴る。日本時間で、8時間早く起きてしまった。続きがうまく寝られず朝になってからようやく眠る。■Sa.Qua.Na___________________
Feteな気分なのか10時の朝食コーナーもかなりの入りっぷり。ゆっくりチェックアウトして、駅へ。弁当サンドイッチなど仕入れて、しばらく表示板下でホーム番号が出るのを待つ。
出た! と、その途端に底抜け脱線レース風の大移動が始まるのがフランス的にマヌケな風景である。自分も参戦するけど。10号車。
コンパートメントの風景。ものすごく押しだまって読書してたが、窓側マダムの「あらワタシ、コンポステしてないけど大丈夫かしら?」の声で一気にブレイクして口々にあれこれアドバイスが始まったのがオモロかった。
発車前にパン食べ終えた兄さんは近くで降りた。右隣りの黒人ねえさんは13号車のチケットでまちがえてたと判明。
列車は北へ。冬のフランスらしい曇天と灰茶色の木立となだらかな丘陵。ノルマンディーに入ると晴れてきた。空が青くなった。白い雲。手前を流れる梢が早送りの回想シーンのフィルム調。
Lisieux。リジウで下車して、バスBus Vertsに乗り換える。乗客はうちと知り合い(たまたま?)らしき娘さん2人くらいの、ガラガラ状態。
牛だの羊だのポンレベックの町だの(馬もロバもけっこういた)眺めつつ、やがて着いた港町オンフルール。かわいらしいきれいな町。石畳と戦いつつ、たどり着いたメゾン・ド・ルーシーはすこぶるいい宿。
好天のうちに街を散策。ギャラリー(画廊)だらけ。
そぞろ歩くのにはばっちりの、雨上がりの暖かい日。鐘がカランコロン鳴りわたる。
Sa.Qua.Naの前を通る。テーブルクロスにアイロンかけていた。
click!→Sa.Qua.Na
[へべ]
10時朝食。
12時ごろ出かけて、16時すぎまで街歩き。オンフルールは小さなきれいな港町。ほとんどすみずみまで歩いた気がする(みるべきほどのところは)。
店も案外やっていて、たくさんの観光客がものすごい勢いで写真を旧港あたりで撮ったりそぞろ歩いたりムールとフリットを食べたりしている。
[AQ!]
欧米人は海岸沿いを、そぞろ歩き競争する。
対岸は興醒めするほどインダストリアルシティである所のル・アーブル。
[へべ]
朝6時ごろからドアのバタンバタンというような音がやかましい。何だろう??といぶかってたら、なんとうちの部屋のマドの鎧戸がとまっていないのだった。orz...
[AQ!]
15年モノと1978のカルバドスを試飲。
元旦はケッコーやってた店々は2日は閉まり、淋しい。2日からの正月休みってのが多いのか。意外にポコポコ、変わらず営業しているのは「ギャラリー」群。
[へべ]
帰りのSNCF。
コンパートメントの相客はおしの娘といちゃつく青年のカップル。フランスの列車の見送りって、なんかいいな。
オンフルール~リジウ~サンラザール
セラドン
H.ウェストミンスター
ランブロワジー
タンディン
H.ウェストミンスター
為平
ボンマルシェ
ポンピドーC
ムーリス
H.ウェストミンスター
CDG→成田
2007年10月 関 越
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2007年4~5月 カタルーニャ
BA [AQ!] 実のところ、2006は日本から出ませんでした。やっぱ、気分的にはトホホ。広島・弘前・北海道…なんか遊びオンリーで 行って、それは楽しかったんだけど。 でもやっぱ海外行は派手よねぇ、と2007はGWに狙いを つけるが、まぁ何だか国民こぞってよくわからんK泉に投票するもんだから、ユーロは150円越え…、ってか、結局、VISAの換算レートでは165円越え。(どうでもいいけど、もう日本からはかっぱぐだけかっぱいで後はポヒ、が世界のコンセンサスだよな(^^;)) このレートじゃ、フランスも何もありません。って訳で行き先はすんなりスペイン。物価から考えてこれっきゃない。 (^^;) 迷わなくてよくてラクじゃ(^^;)。 アストゥリアス行がウチの念願ではあるのだけど、まぁやっぱ眺め渡すとカタルーニャに宿題は多い、…ってか、へべは、バルセロナ市に行ったことないし。で、まぁ、カタルーニャってこって。 で、BAが取れた。…スペインって直行がないのよね。なさけねー。 糞ったれヒースローは警戒厳重。どーでもいいけど、あんな駄目空港さ、敷地内を“犯罪者”の横行はほぼフリーパスなのに、乗客の靴だけ脱がせてどうしよ~ってのかね。…ってか、 政権の言い逃れ用、言い訳にするんだよね。(^^;) ロンドン・バルセロナはBA・イベリア共同運航便なのだが、これがヒジョーに侮られた便。ターミナル2だっけかな、寂れたターミナル指定なのだが、出発時間間際になってもゲート番号すら出てこない(勿論、職員に聞いても知らない)。 トホホとか言いながら、30分遅れくらいで飛び立つ。 イベリアはよほど金がないようで、機内食もすべて「販売」。(しかし、復路BAではけっこーごっちゃりタダ飯が出たのであって、なんしか割り切れない) 何となくフラフラとビール・サンドイッチを買って摂取したのだが、これが後で「いい勘」となろうとは、この時はつゆしらず。 それにしても、スペインに行くことを考えると、イベリア航空は、早く、BAかAFに買収されてくれんかのぉ。多分、だいぶスンナリするような気が。 [へべ] ●成田→ヒースロー Wind in the Willows 実写版 ●ヒースロー 手荷物検査大行列 列に並んで待て イベリア航空terinal2 冷遇&ゲート出ず ルノーF1チームの皆さん 有料機内サンド チーズ・ハム・ほうれん草・ひまわり・炒タマネギ Condes [AQ!] いきなり、旅行記的には大ヤマだ(^^;)。 バルセロナ空港着。タクシー。タクシーはありあまる数が溢れているのだが、運転手たちの指示が細かい、うるさい。後で考えると、けっこーカレらは「整列乗車」好きだったようなのである。「ここはスペイン」とばかりにゴチャゴチャと乗ろうとするカンコー客を整理してたみたいなのだ。(地上整理員がいればいいのにな) バルセロナは割りとそういうところがあって、例えば市内でも歩行者が、ある程度「キチンと信号を守って」いたりする。ここは、スペインではない。しっかし、“どスっペイン”人も多数混ざってたりするのでややこしい。 (^^;) そういえば、語学学習者には、バルセロナはサイテーだという評判らしい。…そお、そうです、カスティージャもカタルーニャも、両方、訛ってるから(^^;)。 タクシーは気がいい。…ってか、バルセロナで使ったタクシー、全員気が良かったなー。そして、ワシらのスペイン語が「うんぽこ」と聞くとナッカリする。お喋りがしたくてたまらないのだ。そして、何故か、ほぼ全員が、80-90年代の黄金欧米ポップスの、しかも歌謡っぽい奴かけてるチャンネルが、大好きだ。 ホテルはパッサージドグラシアの4つ星、コンデス・デ・バルセロナ。銀座と有楽町の両駅が近い利便な「いちおー高級、程度の老舗」…ってとこで、“上の並”みたいなホテルなのだが、ネットレイトがかなり安い。 実のとこ、ここを見といて、上の下・中の上・中の中…くらいまで探したんだけど、コンデスの「意外な安さ」に条件バランス的に匹敵するのがあまりなかったんね。 ま、これから、その「安さの秘訣(^^;)」にすぐ直面する訳やけどね。 続Condes タクシーはホテルコンデスに着く。23:10。 「メヤモ石井でやも、早く寝せれ」 … 「え、こんな時間に?(と時計を指す) あなたの予約キャンセルあるよ、満室ね~」 … なんだとぉ~~!! … 「ざけんなテメー、レイトチェックインだゆーてあるだろーがや!(ドンっ)」 えー、予約なんですが、ネット予約。で、コンファームが一往復。更に、遅い便なのを気にした用心深い(^^;)私は、「23:30着くらいの便だけど、ひとつよろしこ」と念押しのリコンファームをいれ、これに対して「了解しましてよ」という返答を得ているのである。 まだ、23時半にはなってないのである。 あっちゃー、のオーバーブッキングなのである。 「どーしてくれるがや!」 と怒髪天。…ってか、まー、この手の事態は常に予測しないではないけど、さすがに、乗り換え便だとガックリ来ますね。パリやロンドンならまだともかく。乗り換え便だと、16時間くらい経過か、ってか、家出て20時間近く、ってか、もう丸一日経った感じ。何でもいいから、寝たい、感じ。 ま、とにかく、怒ってみないことには始まらないので怒りながらも、辺りを見回すと、ううううむむむむ、なのである。 そう、このホテル、どうも「やらかして」しまったみたいなんだよなー。 つまり、ワシらと同じオーバーブック難民が、数組、見当たるのである。 どこの組にも「こんな遅くちゃダメ~」とか一発かましてはみてるようなのだが、すかさず「何を言うとるか、このリコンファームFAXが目に入らぬか」的な逆襲にあって、タジタジなのである。 当直のフロント連は、一回はキャンセル~と抜かしてはみるのだが、反抗にあったら米搗きバッタのような低姿勢にジャガーチェンジする、という方針のようで、「すまぬすまぬあいすまぬ、今どうにかするから」という答弁となる。 ところが、この日は土曜、市内のホテルの空きが無いようで、かなり手間取っている。 フロントにへばりついてネメツケテいるワシらも、その前の数組と同じように、「いやぁアイスマヌ、全力を傾けておるさかい、ここにいてもしようがないさかい、ウチとこのバーで好きなもん飲んでいいから待っててちょーでやも」の言葉に従い、やけセルベッサを決める段となりました。 続続Condes 「パイプの煙」みたいになってきた(^^;) 好きなもん飲め、と言われても、もはや気がせくとゆーか眠いとゆーか、のないまぜの私たち、セルベッサすなわちビールで息をついております。 その間にもスチャスチャと業務は進行され、…だといいんだけど、ホントーにバルセロナ土曜夜は、満員御礼の巷のようで、オーバーブッキング組の先頭から、ポツリ、またポツリ、と、ジワジワと、「収容先」のホテルに送り出されて行く。 待つことしばし。 やっと色白のフロント君がやってくる。 「待たせたね~チミたち。シッチェスって知ってる~?」 なぬ? 「そんなんシッチェスわけねーやろ」 「あらまー。いいとこなんだよー。そこのリゾートホテル、みつかったからヨ」 シッチェスは町の名前。…で、手っ取り早くいいますと、バルセロナ=東京に対しまして、鎌倉・江ノ島とゆー頃合のビーチリゾート。 そこに空室がみつかったと言う。 「ウチとこは4つ星だけど、そこは何たって5つ星なんだぜ~。俺たち当直もやるもんやろ」 あーハイハイ。 まぁ何だかよくわからんが、眠れるもんなら寝るぜ。 勿論送迎代は持てよな、明日からの部屋は大丈夫だろうな、とにかく俺たつは怒ってるでヨ、などなどを手短かに確かめて後、気のいいオッサンの(ホントに気がよいのだ)タクシーに乗り込む。 dolce sitges http://sitges.dolce.com/ タクシーはスイスイとバルセロナ市内を抜け、高速へ。 バシュー、っとかっ飛んで行くが、何せ鎌倉、結構かかる。俺らは「シッチェスというとこに代替の宿(しかも5つ星だ喜べチミたち)がみつかったよ~ん」としか聞いていない。簡単な説明とメモをフロント係から渡されていた運転手が頼りだ。 シッチェスこちら、の看板で高速を降りる。やれやれ、まぁナントカなりましたか、と車内で嘆息。 クルマはラウンドアバウトを2つ3つ越え、坂を登って下り、いやー、リゾート地とはいえ深夜は寂しいものだなぁ、などと言いおるうちに、急坂の途中で路側に停車する。 あれまぁ静かな所のホテルだこと…、…って、ホテルらしき建物、無いやん。\(☆〇☆)/ 車内灯をつけたドライバが静かに一言。 「わからん、迷った」。 ぎゃふん ああ、遥かなり、我等の今宵のベッド。 ある意味、もうちょっと昔だったら大騒ぎな事態なのだが、さすがに現代では、携帯電話という武器がある。 早速、行き先ホテルに電話。 まぁナントカなるもんだね。しかし、電話が長い。わかりにくい場所なんだろう。 さて、再スタート。あれやこれや抜けると、リゾート地らしく別荘街があらわれ、これも通り抜けて海際の国道に出る。 ここまで来ると、交通量がある程度あって、意味もなく安心感を抱いたりするのだが。 「この辺りだって言ってたと思うんだけんど、無いがや」 え! ああ、遥かなり、我等の今宵のベッド。 続 dolce sitges このタクシー氏であるが、そんなに駄目臭のするヒトではない。いやむしろ、穏やかで落ち着いて、そこそこアタマも良さそうなタイプなのである。このヒトが馬鹿だから見つからない…のでは無い。 しかしまたもや「アイム・ロスト」となって、幾分、意気消沈の様子。 うーん、、、と唸っても、また電話するっきゃないか。となった所で、何やら路上に人影が…。 検問である。もちろん、ケーサツである。 土曜深夜はスペインでも抜き打ち検問やっているのである。クルマを運転する方はお気をつけあれ。 さてしかし、我々…、とりわけ我々の運転手にとっては、好機到来ではないか。 早速、警官をとっ捕まえて「dolce sitgesは何処にござるか?教えてけれ」と尋ねる。 警官は言ったもんだ。 「知らん」 ヽ(^~^;)ノ けっこー、横柄なものなのである。そう、スペインってのは、ちょっと前までの日本と同じで「オイコラ警官」の国なのよね。威張ってるのがデフォルトである。 (だいたい、経済・産業・文化はカタルーニャやバスクにおんぶにだっこ、のこの国をなんでカスティージャが支配し続けてるか、ってーと、アンダルシア辺りの強持てをかき集めてきては、軍と警官に仕立てて押さえつけてる、って構造だからのー) また、ギャフン、かよ(^^;)。 しかし、我らが運転手は、盲亀の浮木にすがるすがる。後方に控えてた若手の警官にも声をかけて、同じ質問。 「たしかアンタラカンタラ、ちょっと戻って山の方に入るんじゃなかったか」 かなり自信なさげであったのだが、今度は、答えが返ってきた。 ユーターン。 のろのろ戻ると、暗~く山の手に折れ入って行く細道がある。舗装も曖昧である。 看板・標識の一つもない。 うーん… ままよ。 意を決して、タクシーは乗り入れたのであった。 続続 dolce sitges タクシーは行く。何か、畦道みたいな、いい加減な道を。 基本的には、 「ふふん、タクシーの後部座席で引っ繰り返ってりゃいいんだから呑気なもんよ」 と構えていたワシらであるが、ドライバー君のへっぴり腰が伝染してきて、心細い。 ま、しかし、いつまでも脅かしていても日記は進まない。 明けない夜は無い。(いや、こんな畦道のタクシー車中で明けられたら大変によろしくないのであるが) \(☆〇☆)/ こんな寂れ道にも対向車が見えた。 お! しかも、タクシーである。 ウチのオッちゃんの空気が一変した。 すかさず呼び止める。(この後にも出てくるけど、この辺りのタクシーは、すぐに人を呼び止める。街を歩いてる人、路端で休んでる運転手、料金所職員、オマワリ…) 「ドルチェっつーホテルしっちょるがや?」 「ああ、そったら、このまままっしぐシバラク行けば、あるとよ」 \(@▽@)/ (^^;) \(@▽@)/ ようやく事態は落着を見るに至った。ものの5分、忽然とえらそーなリゾートホテルが現れる。 へべ曰く「鎌倉山に二期倶楽部って感じ?、か、葉山の音羽の森?」 ま、それを見たオッサンが逆上して、直前でまた曲がり道を間違えたりするのだが、それはイイ。 とにかく着いた。 「オラ! メヤモ…聞いとるけ?」 「あーはいはい」 さすがに5つ星、フロント係の笑顔がよろしい。こーゆーのは効くぞよ。 無事にチェックイン。 ちなみに料金は、コンデスで取ってあった部屋の5割増くらい。コンデス持ちだからどーでもいいけど。 それにしても、25時半。 フロント係は、笑顔が素敵だけど、何だか、むっちゃ忙しい。しかも、我々の後から、25時半を過ぎてなお、わさわさと、チェックインしてくる客もおるでよ。 どーなってかるのかのー? ホントーにバルセロナ市内は溢れてしまった特異日なのか、特異でもなんでもない、いつもこんな感じの~街♪(モンティパイソンの「フィンランド」のメロで)なのか。 ま、家元は寝るぞ。 しかし、館内がだだっ広くて、フロントから部屋まで5分程歩く(^^;)。 二日目朝 深夜、やっと部屋にありついたワシらは、五つ星なる豪華?浴室の恩恵とセルベッサの恵みを混濁した意識の中に感じつつも泥のように寝る。 [へべ] タクシーになんとか乗りホテルコンデスへ フロントで着遅くキャンセルだとか言う 怒、他にも同様の組あり バーでビールとナッツ Sitzesにいい宿とるからと Lost Dolce泊 朝方、雨の音 Dolceはゆったり、二期倶楽部っぽい? [AQ!] 朝。 おお、ビーチが見える、ゴルフ場らしきも見える。 ふ~ん。 よっしゃ、せめて午前中いっぱい五つ星ホテルをしゃぶり尽くしたるで…、と思わないでもないが、そんなにノンビリしてらんないのである。 まず一軒目のレストラン「レスグアルド」の予約は14時である。 今いるシッチェスを「鎌倉」に例えたが、「レスグアルド」のあるサンアンドルーって町は、「筑波」といった辺りになろう。(シッチェスが土浦あたり…だったら、なかなかの幸運だったのだが) そして、筑波まで行く前に、「東京」=バルセロナのコンデスに寄ってチェックインしちまいたいな、ということがある。 そんなこんなでバタバタとシッチェスを後にする。 う~む、また来ることがあるのであろうか、この町。 [へべ] Condesに移る、スイート、あとでワイン [AQ!] さて、12時間経過して舞い戻ったオテル・コンデス。 さすがに、ほんのちょっとだけ丁重な、出迎え。 用意の部屋は(いちおー)スイートルームである。 我々の予約は「一番の安部屋」であったから、マー、相応なアップグレード。 スイート…ってほどの豪華さでもないのだが、ガイドブックなんかのこのホテルの紹介写真にも使われてたと思う部屋であるので、一応、目玉商品ではあろう。 それから、ワインが一本置いてあって「このたびはまことにスマソ」とか書いてある。 旅程では、コンデス泊は、旅の前半三泊と後半二泊。 この前半三泊が、シッチェス一泊+スイートルーム二泊になった訳だ。 ちなみに後半二泊は、もうスイートはくれなかったけど、リクエストよりは良いゲの部屋だった。 以上がオーバーブッキングの穴埋め。 へヴィなトラベル趣味者ならこんなもんでは済まないだろう、全スイートに毎日シャンパン一本…とか勝ち取るのかなぁ…、などまぁ思うのであるが、交渉で時間取られるのも嫌だし、 まぁ事前組みの予算に対しては一文もオーバーせずに、面白い思い出(^^;)とスイートルーム二泊貰ってるし、まあいいか、という、太平洋のようにココロの広いワタクシである。 ふぉっふぉっふぉ。 レストラン選び さて、レストラン巡り一軒目「レスグアルド」篇、はじまりはじまり。 …の前に、店選び序章。 カタルーニャである。 「エルブイ」 ま、まずはエルブジではある。けど、勿論、表向きはとっくに満席。実のトコは「ツテ」系の裏技とかもあるようなんだけど、アッコって割と一回行けば満足なのと、ちょっと白けるくらいの回りの過熱ブリがあって、今回はハナから腰ヒケ気味。 「カンロカ」 …ってか、今回が何故カタルーニャか、ってぇと、ウチのスペインに関するワンオブ師匠であるT島先生(一体、欧州に何ヶ月/年おるんや?(^^;))が、「今はカンロカしかありませんヨ」と言うから。「自分的には大好きなサンパウの更に5倍くらいの良さ」。で、「せんせがそう言うから予約2日とったよ」と申し上げたところ、「貴方がたはきっと後悔します。3日間とらなかったことを」だと(^^;)。 「サンパウ」 で、サンパウなんだが、此処は“入れ違い”なのよ。欧州に割とある「5月アタマ休暇」型。 グゾ。 ところが、よく見ると、4/29の日昼だけ、可能性がある。 いさんでメールしましたよ、2月上旬だっけか。 このパターンで予約が取れた「アンフィトリオン」を思い出しつつ。 と、と、ところが、「満席だよ~ん」。 うううう。 三ツ星恐るべし。(神様、ロカを三ツ星にしないでネ(^^;)) で、カルメおばさんはGWには日本橋に来てた筈。 「レスグアルド」 さて、んなとこで、二日目=現地初日は日曜日。 カタルーニャの場合、最もレストランが閉まっているのは、(おそらく)日曜夜。次いで、日昼・月昼夜。 あ、ところで。 フランスだと、ゴツーンと食うんだば、やっぱ夜が基本。…でそれは異論無きかと思うんだけど、スペインは微妙。 ってか、どっちかと言うと昼が正餐っぽい。 実際、昼の方が賑やか。 前にバスク旅行した時はディネ中心で行ったんだけど、たしかに妙に寂しい店もあった。 そんな訳で今回は昼中心とする。 しかし、スペインの習慣の欧州内での摺り合わせはびみょんぬ。 昼寝してる場合か? 正餐たる昼食も、アルムエルソなのかコミーダなのか、最後まで釈然とせず。アルムエルソはコミーダとデサユノの間、って感もある割りに、昼正餐のカルトにアルムエルソって書いてあったりするんだよなぁ、、、、 で、なんだっけ? 若干、魚影薄めな日曜の予約はキモなんだけど、やってるんだよ、レスグアルド。ここは月火休。そう、診療日だからネ! レスグアルド さ、ベースキャンプも固まったし、いざ出撃だ。 レスグアルドはSant Andreu de Llaveneresという町にある。東京駅近辺に泊まってるとして、府中とかって感じか? (ただし京王線は走ってない) この例えに沿うと、「マタロー」という町が吉祥寺か三鷹に相当し、 そこまでJRで行ってそこから(府中まで)タクシー、ってのが基本的に考えられる移動手段。 ではあるのだが、今日は日曜なのよね。敬虔なるカトリックの国の日曜ってのは、観光客にとっては、かな~り鬼門なのは、我々の数少ない経験からも、思い知らされているところ。 「かなり大きい町」であってすら、「駅」とか「タクシー」とかが機能していないことは、まま、ある。 それに、「昨日がアレ」だったしなぁ。 んで、スペインはそうは言ってもタクシー代は安いのである。 ってな訳で、バルセロナからビュンとタクシーを飛ばすこととする。 以下、 http://aq.webtech.co.jp/restmes0.html#LESG …えー、文章は走り書きメモ状態ですが、写真は入れますた。 (^^;) [へべ] レスグアルド セラーとチーズ庫ツアー/Menu/おしゃれめがねの小柄なソムリエ バルセロナ・タピエス美術館 オーガニック屋テイクアウト 3日目 Condes Alkimia コルテイングレス 4日目 Condes→どしゃぶりタクシー Can Fabes ホルヘガストロで昼と夜。 サンティ巨大。昼も夜も朝もいる。 部屋に入れば極楽。 黒人娘の客室係がカヴァの入ったアイスペールを運んでくる。裏口まで行ってたまたま出てきた厨房の若い衆をつかまえた甲斐があった(笑)。 ルームキーのホルダーは大きなフライパン (ペンでぐりぐり「2」と書きなぐってある。ドアは無地) 入ると座り心地のよいソファとオットマン。書棚にはサンティ本がそろってる。通路左手がムーア風?の風呂とトイレ、右手になんと洗面台(石の) という変わった配置。 で、ベッドルーム。宿の調子はなんとなくブラスみたい。 Can Fabes ・夜のフォアグラ焙りにサナホリアヴルーテ! ・夜のトシーノ? 豚の首肉にモリーユ ・昼の 大タコ+小イカグリエ が、へべのベスト3。 ロモの2色火入れ、エビカレーのソース担体セモリナの出来、も印象的。 5日目 El Raco de Can Fabes 朝食 シエナのイタリア人子連れと会話 サンティサンタマリアらスタッフはメニュー会議 キッチンミトンを土産にもらう スワルさん似の関根くん タクシー、ジローナへ Hotel Ciudad わりに大きいが、しっとりした街 Can Rocaへ。 タクシー、ふたっ走りくらい。 左どなりが父母の食堂「Can Roca」(写真)。 Hotel Ciutat (=Ciudad) おばちゃんのパン屋 カヴァ 6日目 Hotel Ciutat de Girona 天気予報は悲観的だったが起きてみると晴れ(とりあえずは)。 夜中けっこう寒くてAQ!が毛布出す。 テレビではロワイヤルvs.サルコジ、国内のトラック乗用車激突とパレンシア(どこ?)のピソ崩壊、グラナダの大水ニュースをくりかえし流していた(マドリの暴動も)。 (注:Palencia カスティーリャ・イ・レオン州の町) 12時にCheck Out後、ロビーに陣取る。 Can Roca 2食目 Hotel Arcs de Monells ヴィユーピュイみたい 7日目 Hotel Arcs de Monells → Condes 朝散歩 小雨 おばちゃんタクシー 市内快晴(雨のち) 銅像設置 Happy Books ABAC移転疑惑(→ガイドブックの早とちりだった) バス[24] グエル公園 ABAC 情熱のソムリエ、ごついシェフ:シャビエル 夜もんもん 雨 8日目 サンジョセップ市場(ボケリア市場) フェンネルの種 バイク大行進 J.L.フィゲラス:うやうやしいメートル、貸切!、閑静 静か 市場再訪、本屋閉店、本店見つからずロメホール購入ならず カサミラ、雨 いったんホテル戻って、タピエス美術館売店 ロイディ 22:00 ボケリア市場
肉系モロ画像が苦手な方、ごめんなさい。…って、ここ読んでるヒトにはほぼいない…と踏んでるのだけど(^^;)。肉屋さん、これはその中でも、とくに目立つ兎。スペインはレストランでもホントによく兎が使われるが、市場で見ても、やっぱり多い。あと、山羊の多さも「スペイン」。後ろに、内臓類…これは牛かな、も見えている。
9日目 [へべ] 7:00起床 コンデスのテラス(屋上)拝む。ゴーセーである。宴のあと。 8:40 Check Out 空港ターミナルAで降りたが、BAはBだった。てくてく外を歩く。全体に表示は不出来。まだ工事途中? BAが自動(self)チェックイン機を強力導入中。ひとりついてるネーちゃんが大変そうだった。チケットの意外なNo.が予約確認用と判明。そうと知ってれば自分でゆっくりやったかも。パスポート確認まで機械化。 Departure Gate前につがいのスズメ。天上の換気ユニットに住んでる? BAバルセロナ→ロンドン 大入り。2-3-2と機体もデカイしサンドイッチも出る。 |
2007年 1月 関 西
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2006年11月 北海道
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2006年 7月 鎌 倉
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2006年 7月 弘 前
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2006年 3月 関西・中部
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2006年 2月 万 座
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2006年 1月 福岡・長崎
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2005年 6月 鶴 岡
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2005年 5月 愛知博
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2005年4~5月 ブルターニュ
Auberge de Saints Peres …と言ってもまだ着かないぞ。パリに入ったワシらはCDG空港にそのまま泊まって翌朝からレンタカーをぶっ飛ばすつもり。さて早く寝るべか…としたものだが、今回はエア(久しぶりJAL)が15:30と早い時間にパリ着なもので、さすがに夕方に一休みして夕食はちゃんと外出することにする。このパターン、眠いんだけどね。眠いから、17:30とかに着く便だとやらない方がいいのだが。 で、こんな行動パターンにちょっと良さそうな店がある。それがこのAulnayのオーベルジュ・ド・サンペール。Aulnayってのは、CDGのあるRoissyとパリ市内とのちょうど真ん中くらいにある郊外の街で、この小さな街の小さなレストランが昨年(だっけかな)、ミシュランの1つ星を取ったのである。タクシーで市内に出ることを考えると半額で済むし、これはちょっと試してみたいところ。 Aulnay…がどこにあるかはタクシーの運転手氏も楽勝ピーであったが、Aulnayの街の中…、はややこしいややこしい。頼んだタクシーにちっぽけな、しかし頼もしい実用的カーナビがついていて誠に助かった。店に着いて、運転手氏も「わかんねーよな、こんなとこ」と言っていた。 …と、そうなのである、タクシーはフランスでいつもそんなに利用しないのでシカとはわからないが、今回気付いたのは、「タクシーのカーナビ装備率」が大変に上がっていたこと。Nantesでもそれで助かった。 大都市郊外の住宅地の静かな小さい店。(郊外住宅地…はイメージ通りというか“中の上”感の漂うまずは小奇麗な家々の立ち並ぶ街なのだが、ストリートにいる若者どもは妙に不良っぽい。イマイチとらえにくい町だ、Aulnay) ミシュラン星付きとは言っても、ほとんどは近所の連中がワイワイと盛り上がっている。ま、連中にとっては今日は「ハレヤカな」店に来てるだど!、ってとこかな。内装はお気楽シック、サービスはお気楽ちょい気取りのちょいお茶目。ソムリエはへべの水グラスにエヴィアンをちょっとだけ注いで「テイスティングお願いします」などとカマしておる(笑)。 料理は、メニューに「ノリマキ」がどうの「チョリソ」がこうの「カオリサンショ」がどうした…、と並ぶ、スペイン風邪と日本脳炎をこじらせた21世紀パリ型インフルエンザ仏料理の典型である。写真の珍妙な(カッコいい)ガラス容器の一品も、卓上に現れてから、“消火器のような”ボンベからガスパチョ様のトマトソーダスープを「ブシュ~~っ」と吹き入れて行くと言う、サーカス小屋のような演出。 …とケレンたっぷりなのだが、ここんちのCahagnetってシェフはなかなかにまとめ上手で、美味しい。意外と意外に、無駄がなく、けっこう腑に落ちてくる設計になっとるのだ。味の夾雑性が少なく、細部も詰められていて、快い。うーん、こういうタイプではかなり好印象。「これって、カーニエ君の属人的な才能なのか、それとも最近はパリも日本料理セミナーとか盛んだし21世紀型もだいぶこなれてきたという時流なのか、どっちかねぇ??」とつぶやくと、へべは「あら、そんなもん個人の資質に決まってるわよ、どうせ。この人、上手ねぇ」と断じる。 それと、これ、アミューズ・前菜・主菜・フロマージュ・アバンデセール・デセール・ミニャルディーズ、と付いての「5000円定食」(プリフィクス型)なのだ。36Euro。けっこう、めちゃ安。まぁパリ市内からタクシー飛ばしてやって来ることを考えると、8000円定食ぐらいの意味合いになってしまうが、それでもお値打ち感がある。なかなか良い店だ。 で、ホテル帰って爆睡。ちなみに空港ホテルはDorintを試してみた。これもAccorでほぼNovotelと同等なのだが、空港Novotelよりず~っと良い。そのせいか、ロビーにはやたらとエアのクルーが目立つ。 Lorient あがあがあが。爆睡したぞ。Dorintはプチデジュネもなかなか結構だね。シャトルバスでCDGに戻ってHertzのカウンター。まぁAvisでもEuropcarでも良さそうなもんだが、Hertzのクルマが毛先1mmほど手入れが良いという噂を信じてHertz…、…というより今までトラブったことがないのでゲンを担いでる程度であるが。 今回はパリからブルターニュまでぶっ飛ばすし、何だかんだ移動も多そうで、1500~2000km走ることが想定される。「ま、Twingoクラスよりは大きい方がラクか」と思って、はじめて“下から2番目”にする。…いや、今まででも車が余ってるので勝手にアップグレードしてくれたことはあったけど。今回はちゃんと最初から“下から2番目”だぞチミぃ、と威張ってカウンターで名を告げた訳だが、カウンタのネーチャンは少しも慌てず「えーとムッシュ石井、“スモールな”カーで良い訳ね?」とのお言葉。くそ、“下から2番目”くらいじゃ駄目か。まだスモール扱いか。あてがわれたのはオペルのアストラ。 これはいいサイズでした。いや、つまらんこと言ってるけど、実は、大きすぎるクルマも困るのよ、ワシら。この程度の大きさはあった方が130~140km/hの高速安定性は出てきていいんだけど(Twingoだとプルプルする)、もっと大きくなると、俺らの好きな畦道や山道での取り回しが不自由になるし、駐車回りも自由が効かない。今回にはベストなサイズ。アストラはヤタラとようわからんスイッチの多い車で、最後まで全ては解明しませんでしたけどの(^^;)。 ところで、前夜、TVのメテオを見てびびってたのだが、予報はばっちり当たって“馬鹿陽気”となった。渡仏前に見ていた長期予報に、いきなり「プラス10度」である。そんな用意してね~よ~(^^;)。あっさり気温28度を記録されてみれば、車内は30度以上の時間も長かったと思われ。「グゾ~、暑いだろが」と悪態をつきながらLorientに向けて、何処までも真西に500kmの行程を進む。…進もう、と思う。思うんだがよ~、このいきなり夏日の土曜、陽気に浮かれたフランス人どももクルマにボートやら自転車やらキャンピングカーやら繋いでゾロゾロと行楽地に向かって出発しやがる。パリを抜け出しても“まだしばらく渋滞”というヒドい目に遭う。…といっても日本のGW高速渋滞に比べると、渋くも滞ってもいない程度だけどさ。 やっとこさ、ル・マンを越え、レンヌを越え、3時だ4時だになってもまだ暑いよ今日は、とボヤく車は5時にはLorientローリアン…すなわちよくみれば“The Orient”という名を持つフランス西端地域の町に着く。なんでオリエントなんや、というと、英仏競ってインド会社的競争をしていた時代の先端基地の町だったらしいのね。その当時から、“街角の薬屋でカレー粉を売っていた”という東洋交易風味満載の町である。 とはいえ暑さでくたぶれたので、ホテル~ホテル~、と予約してあるメルキュールを探す。この町はメルキュールふぜいでも最上級のホテルになるらしい。町の真ん中近辺にメルキュールがあって、やっぱり風情はメルキュールで、それでもこの町では最上級で、玄関入ってって「ボンスワー、ジュマペ…」と言いかけると、フロントのネーチャンが「ボンスワーむっしゅ、のののん、最後まで言う必要はなくてよ、あなた方が、イ・シ・イさんだわよね~」と妙に嬉しそうに切り返してくる。いい町だいいホテルだ。いいぞロリアン。メールで聞いていた通り、ホテルの前は町の真ん中にも関わらず広大な公共駐車場になっており、しかも無料だから好きに停めろという。このくらいの町が、好きだ。 L'Amphitryon : Jean-Paul Abadie メルキュールのフロントで、ついでに聞く。 「レストラン、ランフィトリオンっつうのは知っとるかに、チミぃ?」 「あ~ら、勿の論よ。 (ロリアン市街地図を取り出して) ホテルが此処でしょ、こー行ってあー行ってロンポワンが2つあって、はい、此処! (とボールペンでぐりぐりする)」 「ふぉふぉふぉ、さすがにゆーめーであるのね。タクシーでどのくらい?」 「うーん、10分」 「我々は実は今晩予約してあるだで、どうか20時にタクシーを呼んでくだされだども、お願げしますだ」 L'AmphitryonのJean-Paul AbadieはGault Millau の Cuisinier de l'annee 2004に選ばれて一躍注目を浴びたが、それまでは内外ともにマスコミ露出が少ない地味なシェフという印象であった(けど、どうか)。2001年にミシュラン1つ星・ゴーミヨ18点だったのが、2004年には2つ星・19点となっているので、急進中の若手かと思いきや、写真を見る限り「おじいちゃん」っぽさも出て来たベテランシェフであるようだ。大体さ、かなり僻地なので、ミシュランもゴーミヨもろくに審査員が回ってなかったという辺りが真相、だったりするかもしれぬ。 ここは行ってみたいものだ(こういうシェフ顕彰は地方のシェフに与えられる時は信憑性が高い)、と、2月中にFAXを入れるが、これがあーた、返事が来ない来ない。も~、今回感じたブルターニュ全体の特徴だが、ルーズだよ(^^;) (別にFAXに限らず、e-mailの返事もゆっくりな所多し)。パスカル・レミが「ミシュランの調査員は伝統的にアルザスのしっかり者が多くて、ブルターニュあたりの連中の事務処理のいい加減さには我慢がならない。それであの辺りの星は全体的に実力より低いんでねーの?」みたいな意味のことを書いてたけど、ホントだ!(^^;) でリクエストは5/3だったのだが、3週間ほどしてやっと来た返信には何と「いやぁスマンスマン。5/1からメーデー休暇でね、1週間休みなのよ~ん」と丁寧な字で書かれている。アチャー! 今年の暦上のGW、すなわち我々の休暇は4/29~5/8なのである。 こりゃアカンか…とカレンダーと営業コードを睨むと「む、4/30はOKかもかも?」。すぐさま4/30のリクエストに切替えFAXした所、悠長にまたしばらくして「OK」が返ってきた。うーん、まさにピンポイント、“空白の一日”(古い…)にジャスト・ヒットだー。 そして後になって我々は、奇跡の一日にこの店を訪問できたことを神に感謝することになる。速攻で「我が心のフランスの料理長10人」を書き換えたくらい、圧倒的に好き。ワシら個人的には、この店に辿り着かでブルターニュに如何で花実の咲いたものか(^^;) (意味不明)。 20時10分。我々はホテルフロントにいる。タクシーはまだ来ない。「タクシー遅いね」とフロントに声をかけるとオネーサンは「すいませんねぇ。もう~、あのタクシーったら、toujours toujours toujours(と3回言った)、こうなのよ~(^^;)」と電話する。そんなにいつも駄目なら、呼ぶ奴変えればいいのにとも思うが、そこは田舎。間もなく到着するタクシーに乗り込む。運転手のニーチャンは、我々の方に向き直って、「デゾレ。ジェウーブリエ!」と何の屈託もなく明るく笑う。…パスカル・レミの言ってたことが身をもって理解出来た気がする瞬間ですた。セ・ブルターニュ。かも。 クルマは街中心部からやや郊外に向かう。とは言っても、まだ家・店・工場の立ち並ぶ市街地だが、だいぶ中心部に比べるとボロっとくたびれた建物が多くなり、雰囲気も殺伐…じゃないけど煤けて見える(観光客には)。そんな具合の道っ端、いきなり「着いたよ」と言われる。ホニャ?、と見ると、まぁこれも大したことない建物の横にL'Amphitryonのサイトで見慣れた「A」を変形させたロゴが浮かんでいる。よく見るとその横にガラスの扉。いやぁこりゃまた地味な場所の地味な外観のレストランである。“しなびた街外れの道端”具合はArzakを思い出すね、と意見が一致したが、Arzak以上に意外感のあるロケーションかも。 さて、ガラスの扉は中からこちらがよく見える訳で、すかさずバーンと開け放たれて「ボンスワー」。まず最初に驚くのは、“ロックスターのような”カッティングの黒服に身をつつみ頭を“赤と黒”に染めたマダム、ヴェロニク・アバディの出迎え姿だろうか。「ええと予約したイシイで…」「ハイハイ、わかってるわヨ」と、こちらでも東洋人顔が既に今晩のパスポート状態…になっているような流麗な案内で席へ。 主サルで30人弱の小店で、ガラスの彫刻やオブジェがキマった実にクールな内装、めっちゃお洒落で居心地良い。大体、小バコ好きだし。店外の雰囲気との差が急峻でクラクラする。 注文は色々検討した結果、一番大きなムニュ「全部食え」が最も季節やテロワの色がよく出ているようで、それにする。一番上等でも、ミシュラン2つ星にして100euro程度だし、量的に重くないし、これは結構オススメ。 料理は、後に詳述することもあろうが、本当に素晴らしく感動的だ。素材への敬意と直観がある。アイディアがあって、丁寧で精緻な工程を重ねて行くが、その複雑な作業の行き着く結果はとても“シンプル”で純粋である。…とそんな料理。舌や鼻に届く時の純度が高くて、珍しくもミシェル・ブラスやアンドニ・アドゥリスに似てる、と思ってしまった(別に似てるから良い・悪いってのは無いんですが)。後でネットで検索してたら、Abadieシェフは英語の記事で「私の料理はSimpleとRespect」などと答えてて、なるほどと納得。 ブルターニュ名物、牡蠣・アーティショー・オマール。牡蠣は大概の店でアミューズで出るが、L'Amphitryonの人参ムースと合わせたシトロン風味ほど牡蠣への理解の深さを感じさせる物はない。季節を迎えるアーティショー・ヴィオレには、「これがアーティショーだったか」と驚倒(元々アーティショー好きなんだけど)。オマールは「昔風」と名乗り、フォンドヴォーのソースなのかな…それが古典的なんだろうけど、もう、ちょっと美味過ぎてヤヴァい。オマールとのこんな出会い、これからもあるものだろうか、と思うと切なくなってくる(←アホ)ような。今回の旅の「この一品」。 …と料理はケレン味のまったくない純粋直球だが、店のアート感覚は色々凝っていて面白い。先にも触れたがガラス作品好きで、料理の皿もすべてガラス。実はこれらは、同じLorientに住むガラス工芸作家Chantal et Didier Le Henの作品で、このプレゼンは、Le HenとAbadieの“コラボレーション”としてとらえて良いと思う(Le Henの作品はGuy Savoyなどでも使われているそうな)。 面白いのは、「料理と料理の間にも位置皿が出る」こと。えーと、レストランに行くと最初に置いてある位置皿・サービスプレート、アシェットドプレザンタシオンって奴ですが、まぁアレは最初だけ置いてある物なんだけど、この店だと、一つ料理が終わると、また違った位置皿が出てくるのだ。位置皿…ってより、「観賞用のお皿」と言えばいいか。Le Henの凝ったデザインの皿で、「次の料理が出てくるまでこれでも眺めて談笑してて下さいませや」ってことなんですな。 作品自体も綺麗で多彩、楽しめた。まぁこういう趣向は“肝腎の料理”がイイ店じゃないと滑りそうな気もするけどね。それにしても、この鑑賞皿の上げ下げが加わるので、サービスは忙しい。優雅に、しかし、飛び回っている。先程のタクシー兄ィとはうってかわって「勤労意欲に燃えるブルターニュの若者」が見られる。ここのサービスは全体にキビキビしてて良かったな。マダムが“キリッと”采配をとってるので、カティが仕切るクラン家の「ラルンスブール」の雰囲気をちょっと思い出した。 Rotheneuf : Les Rochers Sculptes Lorientに静かな朝が来る。いや、田舎だから静か…ってこともあるけど、日曜だから、ね。メルキュールから1ブロック歩くとすぐ港らしいので散歩。見るほどの物は無いが気持ち良い。 さて、今日は一気にブルターニュ半島を北へ縦断し、すなわち大西洋から英仏海峡へと進みCancaleはOlivier RoellingerのMaisons de Bricourtを目指す。一気に…なんて言ってると景気がよいが、何でブルターニュに着いてすぐに縦断なんかしてるのよ…。実はこの後の行程を見ていていただければわかるが、迷走台風よろしく半島をクルクルと行きつ戻りつの日々となるのである(^^;)。 …いや、阿呆なワシらとて本当は綺麗な一筆書きで回りたかったのではあります。でもこれがなかなか難しいのよ。迷走行程になった主因は、 1.下に書いたL'Amphitryonのメーデー1週間休暇 2.Aux Peskedのメーデー1週間休暇 3.Olivier Roellingerが5月5,6日満席だったこと(リクエストmailを出したのは約3カ月前だったのに!) である。これだけ条件が重なると一筆書きは大変なのよね(^^;)。 で、フランスvs.日本のGW。 原則で言うと、日本のGW期間はフランスでは「普通の日々」だし、過ごしやすい気候にあるので「行けたらイイよ、これは!」なのは確か。 ただし詳論を見ると問題もある。まず一番のポイントは、労働の日メーデー(かつ5/1は鈴蘭ポルトボヌュールの日)の存在。パリにいてもストの影響をくらうし(昔、やられました。メトロやSNCFをアテにする人、御注意)、この日に引っかけて連休をとる風習もあるようだ。ちょうど向こう的にも気候がよくなる時期。それから、後で知ったのだが、2005年はキリスト昇天祭の祝日が5月5日に当たっていたのだ。この宗教上の“動く休日”という存在は悩ましい(何せキリスト昇天祭は2006年には5月25日なのだ)。5月5日なんかだった為に今年はフランスも「ミニGW」くらいの様相は呈していたようである。それが下にちょっと書いた「高速道のちょっとしたレジャー渋滞」にも影響したようだ。 ま、縦断といっても150km程度の移動、フランスではあっという間だ。さて、何を観光しませうか。トモダチのトモダチがFougeresで石工の修業をしている、って面白い話があったので回ろうと思ったのだけど、ちょうど忙しい時期だとのこと。 また多分日本人でごった返しているであろうモンサンミッシェルは、先輩諸氏から「あそこだけは行くな」と厳命されている(^^;)(ってか俺らも興味無いし。…ただし、Cancaleあたりからもボヤっと遠くに見えるんだよね、モンサンミッシェル。なので帰ってから「モンサンミッシェル? ああ、見たよ見た見た」と答えたりなどもするってか)。 St.Maloのボルディエは行ったら面白いのかもしれないけど、バター買って帰るのも重いしなぁ。 と前振りなどして(^^;)、実はカンカルとサンマロの間に非常に興味深いものがある。場所はRotheneuf(行ってみるとほぼ「サンマロ郊外の浜辺の村」って感じ)。ここにある LES ROCHERS SCULPTES ってのがソレで、何かというと19世紀末~20世紀に25年間かけて Julien Foure っていうイカれた隠遁坊主が海っ端にコツコツと彫り上げた「楽園」なのだ。人呼んで「北の理想宮」だって。こう聞いて行かずしてどうしましょうか(^^;)。 ま、とにかくロテヌフとか言う所らしい…といい加減にクルマを走らせたワシらは、「わーいRotheneuf標識エリアに入った~」と喜んだはいいものの、まずは単なるリゾートビーチに着いてしまい呆然とする。するが、まぁ時間はタップリあるし腹は減ったということで、村の中心部と覚しき場所に戻りクルマを停めクレープ屋を探すとする。探すとしたところ、Rotheneuf地図板が目の前にドーンと立っていてすぐにLES ROCHERS SCULPTESの位置がわかってしまった。なんだ、すぐそば、やん。安心して、まずはクレープ屋! クレープというかガレット。クレープとガレットは、甘いのがクレープで辛いのがガレット…というのがあるし、ブルターニュのどっかから西がガレットで東がクレープ(あれ、反対かも(^^;))…とかいうのもあるし、蕎麦粉がガレットで小麦粉がクレープ、まぁそんなこんなで混沌としてる(のはワシらの頭、興味ある人はちゃんと調べましょう)のだが、ジャンル屋号的にはだいたい“クレップリー”と言うかなぁ。 Rotheneufの中心はPlace du Canada(この辺出身の奴がカナダを“発見”したらしい)と言うのだが、そのまた中心に「Creperie La Crep'rieuse」というベタな名前のクレープ屋発見。ごめんなすって。シードルとガレットで乾杯! 注文はコンプレットとSoubis(オニオンのガレット…へぇ美味いんだ、と発見)。ここのガレットは“割と洗練された標準”くらいで、後から考えるとなかなか美味かった方だ。店内には子供がいっぱい…これは後々どこもそうだった。「クレープで子供、喜ぶ」って感じがあるんだろうな。 実の所ブルターニュでは、“昼飯はガレットなんぞを”というクレープ屋の存在が、ワシら的にはすんげぇ助かる。昼夜星付きレストランを食うような“鉢巻き決死隊”でも“巨食連盟”でもないワシらには「昼飯どーするね?」というのは意外と悩ましい問題である(ってか、ウチにメールをいただくような方もよくそうおっしゃってます。いいオーベルジュに泊まってる時は、朝食もゴッツリ食べるしねぇ)。こういう美味しい軽食系がある土地は食い歩き旅行がラクなのよ~。他の土地で言うと、バスクなんかは「昼はピンチョス」なのでとてもラクで楽しい。 まっすぐ海へ向かう。車で数分。目の前にバーンと英仏海峡が開ける。突端に展望の良さげなレストランがあって、その脇の小道を行くと、柵囲いと料金小屋。ここで幾ばくか払ってFoureのSculptesと御対面となる。この辺りの海岸は崖がギザギザ・ギザギザと連なって突き出していて、そのうちの「一つのギザ」が丸々Foureのキャンバスになっている。 小屋の大人しいオジサンに手を振って小道を進むと、出ました出ました、道端に怪しい顔面彫刻が並んでいる。その先からむき出しの岩肌が海に飲み込まれているのだが、その岩場に出るや唖然とする。足下に居並ぶのは数知れぬ人形焼き…じゃないや、聖人や坊主や神々と覚しき彫像で、ウジャウジャと群れ集っている。よく見ると人型ばかりでなく、エジプト風碑板あり、牛あり、犬あり、山椒魚らしきに抱かれた聖者あり、祠あり、人面魚風あり…と多彩だ。訳わから無さといい、物言わぬ迫力といい、妄執の深さと作品の爽快さは確かに「シュヴァルの理想宮」を思わせる物がある。 理想宮と違うのは、海風にさらされたここの彫像群は風化が激しく、補修もあまりされないのか状態がかなり悪くなっていることだ。これは、理想宮ほどには評価されていないこともあろうし(文化財的に保護されてる臭いはまるで無し。まぁ立体的造形とかは少ないし)、海岸という悪条件からすると補修も難しそうで、仕方ないのかもしれない。それに…、風雨波浪に磨り減ってくたびれた姿が、逆に見る者にはけっこー侘び寂びがあって、実はいいっちゃいい感じもする。 フランスの美点として、盆栽…じゃないや凡才の群れの中に突然偉大な才能が生じること、と、変なものや理解不能なものに対して妙に寛大で受容性があること、があるが、その2つというのは大いに相互に関係してるのよね、との思いを強くする。 入園して20分ほどは我々2人しかいなかったのだが、その後、ゾロゾロと物見高い人々が続いて入ってきた。昼食時間との関係かな。アールビザールを独占して楽しめた20分はオトクであったかも。若者たちは「お、何だコリャ、意味わかんねー。キモっ」とか言っ(たかどうだか知らんが)て、岩崖を駆け降りていきなり海に飛び込んで遊んだりなどしている(馬鹿陽気は続いているが、それにしてもまだ寒いと思う)。ワシらは外に出て、「妙な彫像が彫られていないギザギザ」も少し散歩してから退散。 Cancaleまでは15分程度のドライブ、すぐ着く。 Les Maisons de Bricourt : Olivier Roellinger Cancaleはコンパクトな町だ。教会を中心にグルリと回ると、案内標識がやたらと沢山出ている。その中には勿論、「Maison de Bricourt Relais Gourmand」や、その経営する宿の一つ「Les Rimains」の名もある。実は我々は、Les Rimainsに泊まるのが第一希望だったのだが、4室しかないこの質素なブルターニュの民家風のホテルは満室で、断念。今日泊まるのは、ブリクールのもう一つの宿Chateau Richeuxである。 RicheuxはCancaleから5kmほど南下した位置にあるのだが、Chateauの名の通り堂々たる建物のホテルで、一般にはこちらの方が人気があると言われる。RicheuxからCancaleの町なかのRoellingerのレストラン「Relais Gourmand」へは、送迎車が走る。 サンマロ湾に望む高台に建つシャトー(といってもどことなく素朴で可愛らしい)にアストラを乗りつける。どもどもボンジュールなんしょ…とフロントを見ると、おねーさんは忙しい。このヒマな時間帯だと言うのに、電話と事務に追われている。適宜適当にチェックインし、「スーツケース取りにやらせるわ」という割に人も来ないので、車をパーキングに移動してから自分で部屋まで荷物を運んでしまう。ついでに言うと、チェックアウト時には更に(電話も)忙しくて、結構ダラダラと時間がかかるのであった。このおねーさんは感じの良い人で、そもそも俺ら、荷物などは自分で運んじゃう方が簡単でラクなくらい(エレベータあるし)で、何も気にしないのであるが、この「人手の足りなさ具合」が“例えば”3つ星に届かない処の由縁ではなかろか、などとは思えるのであった(後にも出てくるが、この、「メゾンドブリクールが何故ミシュラン3つ星を取れないか」というフランス料理界の七不思議話は、食いしんぼにとって、ロランジェを話題とするときの通奏低音みたいなものなのである(^^;))。 部屋は、これでもか、というぐらいに広く、3方の窓越し(一方はサンマロ湾)に風景が開けているのが気持ち良い。日本製オーディオがあって、ロバート・ジョンソンのCDがセットされている。渋い、っつーか、測りかねるというか、カッチョヨイことである。 外を散歩。庭をちょっと横切って小道を下れば、すぐに浜辺だ。言わずと知れた「干満差世界一」な湾でありまして、この時はだいぶ潮が引いていて、ずっと沖合まで海水に濡れた妖しい浜の内臓が見えるのだけど、やっぱりスゴイ。海鳥が何か、つついている。遠~~~~くに小さな三角帽のような島影らしき物が見えるので目を凝らしてみたら、あんれま、モンサンミッシェルであった。「モンサンミッシェル、済み」と勝手にメモする(^^;)。 で、ブルターニュの英雄・現代のスーパーシェフ、オリヴィエ・ロランジェ。勿論(笑)、我々にとって、今回の旅を計画した“動機”であり主眼である。 曰く。 ・地方の個性に立脚し、現代を疾駆する料理の冒険家。 ・ブルターニュを知り尽くす男の海に関する知識は、漁法から魚介類の締め方にも及び、専属の漁師まで抱える。 ・化学専攻の学徒からいきなり料理人に転向した(つまり通常の修業経験は無い)という異色の経歴を持つ。 ・この地方は交易の関係で古くからスパイス文化圏なのだが、その中でも際立ったスパイス使いで、ついたアダ名が「エピスの魔術師」!(実際、胡椒一つとっても、「それでこれは何年何月に何処の畑で収穫したものか? それがわからなければ正確な使用は出来ないし、知識も集積しない」とか言うらしい。ブラヴォ)。 ・右の写真の、化学実験室の薬品棚みたいに並ぶのは、料理に合わせて調合されたエピス類と、風味付けされたオイル類で、これは販売用。少し買ってきたけど、極めて優れている。欧州内ではサイトから通販で買えるみたいなのが羨ましい(^^;)。 そう、今から10年程前のフランスには、ミシェル・ブラスとマルク・ヴェイラ、そしてこのオリヴィエ・ロランジェこそが、「21世紀への扉を開ける」のだ…という空気が、確かにあった。そのことは、本人の言葉にも現れる。 「4,5年前、私を含めた先進的シェフたちが「フランス料理の危険人物」と叩かれた論争がある。保守派の人々にとって、それはフランス料理ではないというのだ。しかしフランス料理というもの自体、本当にあるのかどうか。今そう呼ばれているのはパリの料理だ。本物のアルザス料理、バスク料理、ブルターニュ料理に共通の土台があるかと言えば、ないと思う。国際的にはフランス料理はエスコフィエの料理だと思われている。しかしあれは20世紀初頭の、ホテル向けルセットの集大成だ。いつしかそれがすべての基準となり、料理を縛りつけた。私に言わせれば暗黒の時代だ。私が基準とするのは18世紀。当時は新しいものへの要求があり、世界に目が向けられた。フランスの料理人は新しい素材を受け入れ、把握し、さらに美しいものとして定着させた。皆が才能を表現し、フランス料理を豊かにした。料理はそのように時代と呼応しながら、新しいものを築いていくべきだと思う。」(「スペシャリテvol.3」柴田書店) 何とも力強くも正鵠を射るステートメントではないか。 さらに言えば、ロランジェは、ラ・ロシェル南青山の石井シェフの師匠(「ハーブ料理テクニック」の巻頭言も書いている)でもある。 よし、ここ行くぞ!食うど! と、我々の志は漲る… …ものの、ブルターニュは遠し。冬は寒そうだし(…といきなり脆弱である(^^;))。 そんな訳で数年をボーっと過ごすうちに、Cancaleを訪れた諸先輩方から話を伺う機会を得る。…のだが、これが悩ましい。「あぁ、メゾンドブリクールですかぁ…」…と、みな言い淀む。歯切れが悪い。「どうなんですか?」と聞いてみると、色々あるのだが、「いまいち」「出来不出来が激しい」「面白いのはある」「いいような悪いような」「ウマいのもあるよ」…などという声が凸凹と。そして、「"retour des Indes"は止めとけ」と付け加えられる。ちなみにこの"インドからの帰還"というのはサンピエールのカレー風味仕立てで、ロランジェの名を高からしめた傑作として知られる一品。ブラスのガルグイユやパコォのクドブフみたいなもので行ったら必ず頼んでしまいそうなモノなのだが、「ただのフィッシュカレーとしか思えなくて、なんだかな?」らしい(^^;)。(ちなみに、ミシュランが3つ目のマカロンを出さない主要因は「料理にムラがある」ことだ、という噂) そんなこんなで、行く前から作戦会議。アレはいいってコレは駄目だってインドには帰るなヴィアンドが意外と良いから海産物一色にするなっていきなり2泊はナニかなぁ…、と何か耳だけ年増になっちまったみたいだけど、研究した。 …などあるも、本物のCancaleに着いて、明るい太陽の元(実は、“この時期”のブルターニュは本来、雨天曇天が基本である。ずっと観察してた天気予報でも小雨続きだったのだが、我々の滞在していた一週間だけは妙に晴れた。妙に暑い、というありがたくないオマケまでついたが)、リシュー城の豪勢なバスタブで泡を吹いているとアレやコレやは頭から揮発していってしまう。そして、みるみる腹が減る。 リシュー城からレストランへは送迎車で。「19:20にする?、20:40にする?」と聞かれる。基本的には、この2便でやり繰りしたいらしい。妙に、微妙な、帯と襷な時間設定だなぁ…(それが“例えば”3つ星に届かない処の…(以下略)(^^;))。ちょっと迷うが、20:40。さすがにこの季節、まだまだ明るい。 城の1階サロンに降りる。この1階には海産物ビストロ「Le Coquillage」があり、ディネが始まっている。Chateau Richeuxに泊まりLe Coquillageで食べてしまうのが、観光的には一番手っ取り早い。日本人卓もチラホラ。ブルターニュ半島では日本人の姿を見ることは滅多に無かったのだが、ここカンカルにはかなりいました、日本人。サロンで待つことしばし、ショーファーから呼ばれる。 ビュンビュンビュンのシュッと飛ばして、レストラン「Relais Gourmand」着。ファサードがいい感じ、本館に絡まった蔦も含め緑が目に優しい。この建物こそ、かつてインド交易で財をなしたBricourt氏の邸宅であり、後年Roellinger氏の生家となったと言う(ありゃ、ひょっとしてロランジェ君って、おぼっちゃま?)。門から建物への導入もいいが、素敵なのは池を擁する中庭で、中庭から食堂を眺める写真がよく紹介されている。本日の我々の席は、奥のサルの中庭を望むポイント。こりゃ良い席でしょ、ありがたや。グワグワグワと鴨など水鳥が池の回りを闊歩し水面に浮かぶ。イケスである(嘘)。サルはいかにも邸宅改造型な内装で、落ち着きがあり、しかしどっしりと重いというより洒落っ気のある軽いテイストが気に入った。 セルヴールは最初だけ、何か英語のタドタドしい変な奴が現れてどうしましょと思ったけど、その後は、英語抜きだが普通の皆の衆で、一安心。 料理は、後に詳述することもあろうが、アントレに「スペシャリテ3連発」という盛り込み皿、プラに鮑と鳩を頼む。多分、悪くない注文だったと思う。 アミューズはまず、白い皿上に黒い石を配し、その上に串刺しや揚げポテト器を置く美しいモノ。続いて「3種の貝、海賊の香り」。 …だが、皿上をジッと見てみると、ややユルい。アマい。 …って言ってるのは、この店に期待する「世界トップとしての感動」の有るや否やのレベルの話ではあるのだけど、包丁とキュイソンがややタルい気がする。 パクリ。美味い!…けど、味の細部が、ややユルい。アマい。 料理の詳論はレストランページで後述するとして、トータル的には、このファーストインプレッションの感想は、最後まで続いたのであった。即ち、綺麗で・面白く・美味しい、のよ。だけど、「現代のトップクラスであるか」「感動があるか」という視点を持って来てしまうと、何とも、ユルくてアマくてタルい…というのが正直な感想。点数付けたら(料理に点数付けたことなんかないけど)、85点以上の皿は無かったなぁ、って感じ。だから料理については、「素晴らしい…」というのと「物足りない…」というのが、自分の中でも同居しちまうんですね。ある意味、先輩方の言葉がよくわかった、という…。 鮑は3日間かけて柔らかくムチムチに仕上げた逸品であり、鳩の肉質には惚れ惚れとする(レンヌの鳩は本当にイイのだ)。…けど、ソースの掃き方なんかちょっとダレてるし(総じて現代型料理なのにプレゼンタシオンが乱れ気味というか雑なのはかなり印象を損なう)、味の着地も少し両足が揃わずにバタつきましたかねぇ惜しいですねぇ解説の加藤さん、って感じである。 デセールは、それよりもうちょっと落ちて、少し情けないかなぁ。まぁ悪くもないし、2つ星な感じだけど。 全体にエピス使いは素晴らしく、パリ辺りの凡庸な店には教えてやりたいようだけど、さりとてブルターニュを回ってみると、この地方のエピスNo.1…って印象では、ない。 ワインはオーベルジュ・ブルトンほどではないけどなかなかのリストで、オーベルジュ・ブルトンやランフィトリオンに比べたら割高な値付けだが、2つ星としては良好な方。…だがそこに、ギガルの94のムーリーヌだけ何故かいきなり185euro。え!?、っと飛び付く。ワインが出てきて「こちらでございますね」、なんて差し出されて普段は見もしないでウィウィ言ってるんだが、この時は、ブリュンヌ・エ・ブロンドじゃないのかジッと見てしまいましたよ。いやいやちゃんとムーリーヌ。頃合いもかなり良くなってて、むちゃ旨。うーん、ハッピー(…って実は料理の方も「一軒のレストラン訪問」としては、「うーんハッピー」、ではあるんだけどね)。 そんな訳で、…まとめる必要も無いけどまとめは難しい。「モンサンミシェル観光のついでに素晴らしいレストランがある」というのは嘘では無いし、「オリヴィエ・ロランジェという夢を求めてやってきて、言葉に詰まる」というのも嘘では無い。 帰りの送迎車は、時間差をまとめるせいかギュウ詰めの一杯、日本人も一杯。隣り合わせになったマダムは「パリではフォーシーズンスに泊まったのだけど、ル・サンクよりいいレストランあるわよ…って、ランブロワジーってとこ取ってもらったの。良かったわ」とのこと、「でも、今日の店はランブロワジーより軽くて食べやすくて、こちらの方が気に入ってよ」とおっしゃる。それは至極素直でまともなコメントであり、実際そういうもので一軒のレストランを評して…なら彼女の方がよほど正しいのかもしれないが、…つまり、“ロランジェに見た至高の夢の現実はどうなのよ?”と言い淀む我々みたいなもんは、なんですな、フランス料理ヲタって奴なんでしょうな(^^;)。 前述したようなロランジェの言葉は本当に素晴らしく明晰だと思うし、それがどれだけフランスの地方のレストランを勇気づけたかと思うと、それはいくら評価しても、し足りないほどのものと思っている。それは本当だ。しかし、そういったことも含めた「夢」が、料理を食べることで「現実に着地」する、その快感と感動について聞かれると、先輩諸氏同様、甚だ心もとない。 ぶっちゃけ、そのトータルを俺ら的に総括すると出て来る仮説は、“ブリクールは、スーシェフや部門シェフが弱いんでね~の?”ってところ… …がないでもない。「石井義明さんがいるときに食べてみたかったわね」とか思ってみたり、してね。今日のこれは、本当にロランジェの描いた絵図通りのものだったのだろうか。厨房はシステムである。人心掌握や組織管理に弱点があるのは、理系出身の弱みよね、と理系出身の俺は思う。…ってのはどうか? (^^;) Carnac : Dolmen, Menhir, Alignements ロランジェで満腹し、ベッドへ。 夜中にトイレに目が醒めて自分があまりに立派で巨大な部屋に寝ているのでビックリする。…のは毎度のことだが、こういう時いつも「分不相応」という言葉がチラつく。 また、今回の旅程の中では、夜中にトイレに目が醒めて…、よっこらしょっとスーツケースをズラして爪先立ちで回り込むようにトイレのドアに滑り込む…、という類のスモールなホテルも多かったので、宿泊のジェットコースター感覚ではある。 …と、とりとめもない思いの中、グースカ寝散らすと、カンカルに幸福な朝が訪れる。 朝食は、Chateau Richeux内のLe Coquillageのサルで支度される。窓外にはサンマロ湾が長閑だ。さすがに美味い朝メシ。ブルターニュ名物の“有塩”バターとの付き合いもだいぶ慣れてきた。朝食にクレープが用意されているのは“感じ”である(出来はマァマァ)。 呑気な朝を過ごし、さて心残りは無いですかななどとノンビリ言い交わし、多忙なオネーサンに悠長なチェックアウトをしてもらいついでにエピスなどをゲットし、今日も好天の中アストラを飛ばす。 ブルルン! さて、今日は一気にブルターニュ半島を南へ縦断し、すなわち英仏海峡から大西洋へと進み … … と、前述した通りの間抜けな行程である。一日経って「来た道戻る」である。トホホ。 …と嘆くフリはしたが、空いた道をピュイーンと走りさえすればいいのさ俺たちは。気持ちいい。ブルターニュの幹線は「N線」なのだが、何かで見た所によると「A線」にすると有料になってしまうので「N線」に据え置いているのだとか。真偽はともかく、多くの高速道はA線感覚で走れる。 本日の最終目的地はVannes近郊のLa Roche-Bernardなのだが、まず向かうは同じくVannes近郊に位置するCarnacの街である。 Carnacへ行きます、と言えば、「おお、カルナック!…ドルメン・メンヒルですか!」と響くヒトもたま~にいるくらい、ケルトの巨石文化を今に遺すこの地は、多少の名声を世界に誇っている。我々も「え、またフランス行くの? 何しに?」という周囲の冷たい視線に、「いや、メンヒルが見たくなったもので」と印籠を振り翳し誤魔化していたくらいである(なんのこっちゃ)。 ドルメン・メンヒルとは何か? (そうは言ってもやっぱり)「何じゃそりゃ?」という反応が多いのだが、その場合の説明は、「ストーンヘンジってあるじゃん」…そこから入るのが、容易いようだ。「アレの、もっと大規模なフランス版」。 イギリス人は宣伝上手なのか、それともミステリーサークル様との絡みなのか、“ストーンヘンジ”の知名度は非常に高く、皆が知っている。その狐の威を借りる寸法である。実際には、ストーンヘンジは魅力的な造形を誇ってはいるが、行ってみると「何だ、これだけか…」感もあると言う(知らんけど)のに対し、カルナックのドルメン・メンヒル群は、ああいう「キマリのワンショット」は無いものの、やたらと大規模で幾らでも巨石がゴロゴロと転がっているのである。 実は、現代に残存するケルト文化という意味合いに於ても、ブルターニュというのは非常に重要な土地らしい。ケルト語族一般(これ、思う以上に衰滅途上だって。エウスケラより先行き不安?(^^;))についても、アイルランドなど懸命に底上げして数値を発表しているが、ブルターニュでのナチュラルな生存数はケルト圏の中でかなり重要な物のようだ(にしてもブルターニュでも全然フツーには話してないけどねぇ、ブルトン語。…ブレイス語と呼んだ方がカッコイイ)。 というような難しい話は置いとくにしても、この辺りには古代ケルトの香りがブンブンと大らかに撒き散らされ残っているのですね。 Menhirというのが「立石」。それがズラっと並ぶのがAlignements列石。Dolmenはテーブル状の形をして支石墓とも言われる。何せ成立は「先史時代」とかの話である。「新石器時代から鉄器時代初期ではなかろうか」。…と言われても、“それってナンだっけイツだっけ”の世界である。 しかし実際に目にすると、我々のような“海老蟹牡蠣アーティショー”目当てにブルターニュを訪れた馬鹿者をも「古代史ロマン」の魅力にひき込む魔力を有する、異様なる巨石また巨石なのであった。 カルナックの街に滑り込むアストラ。さすがは巨石様…というべきか、Rotheneufに於てLes Rochers Sculptesを探すような苦労や不安は、全く無い。とにかく、カルナック地域に踏み込むや巨石は街中に溢れかえるように存在し、「観光案内板」の類も腐るほど立っている。 “名も無い”巨石にもいい加減驚きつつ、まずは「Kermarioケルマリオ巨石群」に方向をとる。「P」が見える。暑い。駐車場の乾いた砂がウザったい。ズチャッと砂を踏む。えーと、あっちか。 ガーーーーーーーン!!!!! こりゃ凄いわ。ヤヴァい。見渡す限り、石がね、並んでるんですわ。でっかい。 それにしても石が並んでいるだけなのだが、産毛がピリピリするような“何か”を否が応でも感じるのである。その…、既に朽ちた巧み、既に朽ちた意図、古代にあった何か古代人の意思が、時間を超えてそこに残存してる…っつう訳ですな。これを要するに、ヤヴェ…って感~じぃ。(^^;) いわゆる一つの「何かスゲぇものを見た!」感がピリピリなのです。 ただひたすら並ぶ石…を眺めていると、静謐な“祈り”のような波動が感じられる。巨石の上にゆっくりと降り積もった時間が、層を成して結晶化している。 う~ん…と唸っていると、グゥ…とお腹が鳴った。アリャ。そんな頃合いである。Alignements de Kermarioの先はAlignements de Kerlescanへと続くのだが、 ・兎に角、目的の巨石地帯には到達した ・目星は付いた ・敵はデカい と確認がとれた所で、市中心部で「i」を冷やかしがてら“何か食おう”、ということになる。 Kermarioから市中心へはものの5分くらい。サントラルは、小さい、が、観光的にはビアンヴニュな色彩が適度にある。何か食おう…ったって、ガレットと決まっておる(^^;)。クレープ屋は何軒か見当たるけど、決め手に乏しく、「i」のすぐ横の小奇麗な一軒にお邪魔する。店の名は「Creperie de La pompe」。 いくらか観光色のお客・ここでもクレープに目がキラキラの子供たち、で賑わうお店を仕切るのはシャキーンと派手なマダムである。「店、改装したんだからネ!」と張り切る風情。対して、お運びを手伝う半ズボンの陽気なムッシュはチャランポランな空気で、マスオさんなのか出来の悪い弟なのか。 ここんちのガレットは、まぁ悪くない並くらいで、赤キャベツ入りが珍しかった。薄目のパリパリ目の塩気タップリ型ガレットをシードルで流し込む。満足。 「i」の人の腹も膨れたか、昼休みが終わってオープンしている。覗いてみるも、簡単な地図が掲示されているくらいで、あまり巨石観光のお役立ちにはならない。付近の土産物屋をちょっと冷やかしてから、ケルレスカンKerlescanへ向かう。 Kermarioを越えて数分進むと、左手に乗馬倶楽部があり、その先からKerlescan列石エリアが始まる。Kermarioの駐車場近辺には、我々の身長よりも高いまさに“巨大な”岩が並ぶのに対し、この辺りは腰くらいの大きさの整然とした列が目立つ。 …などと、道路沿いをウロチョロしただけの感想を記しておりますが、実際はCarnacの巨石群はそんな程度で把握できる規模ではないらしい。そもそも列石をず~っと追いかけると数kmに渡って連なっているというのだ。その全体像を眺めようと思ったら、丁度ナスカの地上絵がそうであるように、遥か上空から見下ろさなければ無理らしいのである。 そして、そんな“上空からで無ければ意味がない”ような物をわざわざ作ったということは… …上空から見ていたのだ奴等!、ハハーン… …UFO由来説である。 ナスカや、アステカ・マヤ系の遺跡などと同じく、やはり先史時代の遺物である巨石群の建造目的は諸説が芬々、面白おかしく語られるものと相場が決まっているのである。宇宙人のメッセージだろう、天文的観測施設だろういや観測結果だ、宗教的な儀式に即するものいや宗教的な行いそのものじゃないか、王様の気まぐれだ奴隷の反乱だ、などなど。 そんな説の一つに、「あの石たちは、この地に侵攻してきて魔法によって石に変えられてしまったローマ人兵士なのだよ」と言う伝承がある。 Kerlescanエリアでは、俯いた石は侘び寂ており、下生えの叢が初夏の風に靡いている。“ツワモノどもが夢が跡”と日本人ならば呟いてしまうのは必定である。「あ、これはどう見てもローマ人兵士ですね」…と我々の探索行の結論は決まった。ローマ人兵士たちの瞳は固く凍りついたままCarnacの土地に留まる。 石…鉱物という物は、不思議に、時を吸着し己の地層に塗り固めていくかのように、人には思われることがある。「去りにし日々、今ひとたびの幻」といえばボブ・ショウも同然…とスローグラスる我々であった。 Kerlescanを一渡り済ませ、観光地独特の「オープンエア・ミニトレン」の通過を見送ったりして乗馬倶楽部脇の「P」まで戻ってみると、何やら立て札がある。 「Le Geant du Manio は、こっち=>」 フーン…。よぉわからんが、森の中へ進む小径を辿るワシらである。ちょっと泥濘んで歩きにくい。 ほんとは、「よぉわからん」のではイケナイのであって、これが巨石中の巨石、地球に刺さったナイフ“Le Geant du Manio”様への参道なのだ。巨石は10分ほど歩いた林間に、突然開けた空地に、阿呆みたいに刺さっていた。ワシ2人分の身長をくれてやっても、まだ、足りない(↑の写真である)。 いったい何じゃコリャ! その近くには、またこれも意図のわからない方形の列石が潜んでいたりする。マジカルな林間の散歩である。 さて、車に乗り込み、来た道を戻ってみよう。すなわち、Kerlescan -> Manio入口 -> Kermario と進み、未訪の逆方向へ進む。 すると現れるのが、Le Menecの列石エリアだ。メネック付近は見晴らしが良い。ボンヤリと広がりのある光景の中、やはり小巨石~大巨石が、ポツポツポツポツテンテンテンテンと立ち並んでいる。 このエリアの整理された駐車場の端には、Maison des Megalithes reception : Archeoscope という洒落た施設があり、巨石にまつわるエピソードを特殊効果とともに上映…などしている。ここからMehhir見物を始めるのも手かもしれない。ここのショップにある「巨石クンTシャツ」がとても可愛くて我々の目は釘付け…結局、一人一着ずつ購入┐('~`;)┌。 カルナックの巨石群は、基本的にはグルリを柵で囲われていて、石に直接触れるなどの行為による劣化を防いでいる。のであるが、“ガイドツアー”のようなものはあるらしく、巨石の近くまで行って、講師と覚しき人物の講釈に聞き入っている数十人の集団があった。 一通りMenhir・Alignementsの見物を終えたワシらは、「うーん後はドルメンの一つも見て行きまひょか」。ドルメンもカルナック中に相当の数があるのだが、密集地帯とかは無く点々としていて、立て札も小さめであり、意外とみつけにくい。 やっと一つみつけた「Dolmenがほにゃらら」標識に従ってみるとする。道は舗装道から分かれて林間に入って行く。最初のカーブが大量の水でバッシャバシャである。迷った揚句、クルマを置いて徒歩で進むことにした。泥濘みの道に、よく出合う日だ。我々がブルターニュ入りしてから毎日好天続きなのだが、その前は「ずっと雨」と天気予報に出ていた。その通りであったのだろう。 ドルメンは5分ほど進んだ、樹木に囲まれた小さな空地に隠れるようにして、あった。段々と水捌けのよくなる道であったので、車を取ってくる。 ドルメンは支石墓とも「石のテーブル」とも呼ばれ、正面から見るとたしかに巨人の食卓のようである。ここでは、身長ほどの高さの「π」の形である。ピエール・ガニェールの店のマークのアレ、をデカくしたみたいである。もっともガニェールとブルターニュは、大して関係ない。鳩は、ブルターニュはレンヌ近郊産の物を使っているらしいが。 などと、激しく関係の無い話をする。ホントに墓だとしたら、地下で巨人が怒っていることだろう(何か違)。 大いに満足した我々は、Vannesを抜け、La Roche-Bernardへ向かう。 click!→夕食は『L'Auberge Bretonne』 ゲランドの塩田見学。実は、塩職人さんたちは観光客嫌いと聞いていたので、遠見に…。 交差点にクルマを停めて直売してる方もおられました。 昼は、とにかく、ガレット。 ヨロっと、Nantesの方に向かいまして。 click!→夕食は『Manoir de la Boulaie』 再び、ブルターニュの内懐へ。 Perros-GuirecのCôte de granit rose…日本の知名度は低めだけど、もんのすごい景勝! click!→夕食は『Aux Pesked』 Morlaixに入るとマラソンをやってた。 viaduct Morlaix(鉄道橋)の威容! セレクトのきいたビオ食材で売り出し中の『Creperie L'Hermine』 Roscoffはアーティショーの名産地だとか。 快晴のCarantec。ビーチの活動も活発。 click!→夕食は『Patrick Jeffroy』 ブルターニュからロワールへ。 泊まりは、農家型Chambres D'Hotes。 click!→夕食は杉本シェフの『Le Bout du Monde』 |
2005年 1月 広 島 |
2004年11月 ブルゴーニュ
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2004年 7月 北海道
モエレ沼公園ガラスのピラミッド ディジュリドゥとか click!→夕食は『ランファン・キ・レーヴ』 click!→夕食は『ル・バエレンタル』 click!→夕食は『ゆふらん』 click!→昼食は『ラ・ロカンダ・デル・ピットーレ 洞爺』 ふきだし公園 click!→夕食は『マッカリーナ』 click!→昼食は『Michel Bras TOYA Japon』 |
2004年 5月 青 森
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2003年8月 ドノスティア
Kaixo!! 夏休みに憧れのEuskal Herriko(バスク)に行ってきました。宿泊はDonostia(San Sebastian)だったんですが、左は、Bilboまで遠征して、Guggenheim Museum Bilbaoだす。バスで1時間ちょい。Frank O Gehry設計の美術館建築はちょと凄い。 「チミたちが美術館目的だけで夏休みに行く訳ないじゃろ」と言われれば御説の通り、「食うために生きる」と言われるバスク人と魂の交歓をするためであります(^^;)。 アケラーレ、スベロア、アルサック、ムガリツ、グッゲンハイム・ビルバオ・レストラン・ガストロノミーク、マルティン・ベラサテギと回ってきたのよ~ん。 バスク人の食事好きは夙に知られる所でありまして、フェイマス決まり文句として「Donostia周辺は、人口あたりのミシュラン星付きレストラン軒数が世界一」などと言う。これは事実で、行くのに困るくらいゴロゴロしている。そも、アルサック・ベラサテギという3つ星2軒(しかもどちらも料理については世界の3つ星中でも上位であろう)を抱える都市なんて、本当に限られる。Donostiaみたいな小さな町においては奇跡みたいなことだ。 更には殺し文句として、このスパニッシュバスクの料理は「21世紀をリードする」現代の最前線として注目される「今、旬」な料理地帯なのである。骨太な伝統に基づき、精巧な技術と斬新なアイディアで展開するめくらめく新料理。パリでも東京でも現在多くの料理人がこぞってCopyしているのが、バスクとカタルーニャの料理なのは確かな事実。(まぁ東京のフランス料理屋で「こちら、まぁピンチョスでございますね」なんて小皿を出されるのはあんまし好きではないが(^^;)) …と此処で華々しい幟ばっかり上げてもしょうがないんだけど、…とゆーか、以上のような「バスクブーム」の煽りに乗せられてウカウカとDonostiaまで参じてきたワシらでありましたが、それだけ煽られてなお、想像以上に惚れ上げて帰って参りました。いいよ~、Euskal Herriko!! 華々しい売り文句も本当にその通りなんだけど、それ以上にEuskaldunの勤勉で温かい人間性がそのまま皿に表れているのが、も~、魅力的da!! (ちなみに「da」はバスク語で、邦訳すると「だ」なのだ) そのDonosita周辺でも、既にトップ格であり間違いなく次代の(世界的な、と言っていいだろう)エースが、写真のアンドニ・ルイス・アドゥリスAndoni Luis Aduriz君32才(@Mugaritz)。フェラン・アドリアの厨房にもいたカレは、二人の「MB」、Martin BerasateguiとMichel Brasの影響を強く受け、そこから先の次世代を既に意識的に模索しているという正統の天才。 写真の後ろに写ってる日本人は、ハル関口君。Mugaritzの自家ハーブ園でつかまえてから、色々と面倒をみてもらった。食後には「カレの料理、ヤバいですよね~」「ヤバいっしょヤバいっしょ」と大いに盛り上がる。今年の12月まではMugaritzにいるつもり、とのこと。 しかし、厨房に遊びに行くと、スペイン人コミたちがこっちに一斉に「オカマ~」「コニチハ」「スケベ」「サヨナラ~」…ですと。一体、何教えてんねん、ハル君。\(☆〇☆)/ 上でも書いた通り、この地には固有の言語Euskara(バスク語)があり、バスク固有の文化がある。まぁ誤解を恐れずに言えば、Euskal Herrikoという固有の言語・文化・民族(は微妙だろうな)を持つ国が、長らくスペイン・フランスの占領下にある、ってな感じ。 上で「da」に触れたが、Euskaraはちょっと調べると、ほんまに非常に興味深い言語なのである。英語だフランス語だドイツ語だなどとゆーヨーロッパの言語は、御存じの通り、殆どが「印欧語族」という言語ジャンルに属する訳だが(その他にウラル語系・チュルク語系・モンゴル語系・アラビア語系)、一人このEuskeraだけは(グルリと回りを印欧語圏に囲まれているにも関わらず)印欧語族の定義にあてはまらない謎の言語であり、恐らくは印欧語がヨーロッパに侵食してしまう以前に存在した言語の末裔だろうということで、「前印欧語族」なる言語的孤島だとされている。要は、何だかわからん、と言われているのだ。 大体やね、文例を見てけれよ。 Nire izena Ishii da. Ni japondarra naiz. 私の 名前 石井 だ。 私は 日本人 です。 …なんつー日本語型の語順なのである。それを別にしても、バスク語の言語的孤島性に関しては、日本語やアイヌ語を引き合いに出した記述にはよく出くわすのである。ちょっとクラと来るでしょ。ユーラシア大陸の東西の果てに生きる謎の言語。トンデモのヒトや電波のヒトだったら、それだけでご飯3杯はイケますね(^^;)。 というわけで、このシーラカンスのような言語Euskara(バスク語)は、旅の興味を大いに刺激する存在であるのda。いや、日本語でシーラカンスなどと言うと、"古臭い"が主意になってしまうが、シーラカンスのような大いなる過去から生き抜いてきた"生命力"に驚くのda。近くにはアイヌ語の例を見るまでもなく、国を持たない言語が生き残って行くのは至難の技というのが世界の常識のようだ。それが、関東平野の半分くらいの地域で印欧語以前の言語の孤島が生きている。まして、20世紀の半分近くは(フランコによって)「使用禁止」の憂き目にあって、なお。それでも50万人程度の人口とはいえ、現用現存する言葉なのda。 ってんで、旅人は、萌えますな(^^;)。 大体、さすがにここまでマイナーな言葉なもんで、この町では、どっかアジアから来た奴らが 「エスケリッガシコ!」(ありがとう) と言ったくらいで、大ウケなのである(間違ってカスティーリャ辺りの奴に言うと通じないが(^^;))。お、何か言ったぞコイツコイツ、とワサワサ人が寄ってくるのである。これはどうだとばかり 「エスオレガティック」(どういたしまして) と言ってこっちの目を覗きこむ奴もいる。アグールアグールイクシアルテイクシアルテ(さよなら、またいつか)とやる頃には非常に優しい目になります。イマドキ、あんまり無いよねぇ、こんなホンマモンの"片言"でウケを取れる土地(^^;)。 |
2003年 7月 北海道
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2002年12月 アルザス
click!→夕食は『Yugaraj』 click!→昼食は『Apicius』 click!→昼食は『Les Elysees du Vernet』 [へべ] 今回のフランスでびっつらしたのは、いつの間にやら携帯電話がすっかり普及していたこと。久々の都市&鉄道の旅だったためか、目につくこと、つくこと。 メールはまだ、それほどでもないのか、コロンとした小型の機種で画面の小さいのが多いみたい。 セレスタ→ストラスブールの列車が事故で途中停車した時は、皆、一斉に電話してたし。 ストラスブール着。列車の事故で多少遅れるも、無事到着。 click!→夕食は『Auberge de L'Ill』 click!→夕食は『Buerehiesel』 click!→夕食は『L'Arnsbourg』 click!→夕食は『Auberge du Cheval Blanc』 click!→夕食は『La Table du Gourmet』 click!→夕食は『L'Arpege』 click!→夕食は『Les Ormes』 click!→昼食は『Chen-Soleil d'Est』 |
2000年12月 シュヴァルの理想宮
20世紀の最後は、冬休みをとってフランスの田舎をふらふらしてきました。だいたいリヨン近郊。ちょこちょこっと歩いては「お~寒いぜ」と言ってホテルでひっくり返りダラダラ、あとは延々とメシを食うという大休息大会で、楽しんできたわけなのだわ、ありがたいなぁ。\(☆〇☆)/ (メシの方だけど、相変わらずの Parisの" L'Ambroisie " と、 Grange-les-Beaumontの" Les Cedres (Bertrand)" Saulieuの" Cote d'Or (Loiseau)" が感動的に素晴しかったです。年明けに帰ってきて、コッソリ店名だけレストランページのリストに入れておいたら、早速目敏くみつけられた方がいて、「おやおや~、それで***はどうだったんですかぁ?」なんてメールをいただいてしまった。す、素早い…。(^_^;) ありがたや。) というわけで、お馬鹿の食べ歩る記はそのうちレストランページにでもアップするとして、今回の旅行の主眼はですねぇ、 20世紀のうちに「シュヴァルの理想宮が見たいぞ!」 なのであった。いや、別に20世紀のうち、ってのは特に関係ないんですけどね(^_^;)。 ま、ともかく、シュヴァルの理想宮に行ってみたいとゆーのは我が家の長年の宿願でした。 行けたんですよ~、うるうるうる、嬉しい~っっ!! フェルディナン・シュヴァルという人は1836年生まれの郵便配達夫のオッチャンで、43歳までは真面目に広い田舎を歩き回って郵便を配って歩いていたらしい。ある日、彼は道で石に躓く。見てみるとそれは奇妙な形をした石。この時に、ある思い付きと情熱が彼の頭に取りつく。いや、その後も真面目に郵便配達は続けたのだが、それ以外の全ての時間を傾注して彼は彼の「理想の宮殿の建設」を始めたのである…。(この辺りの話は、岡谷公二「シュヴァルの理想宮」や下村純一「不思議な建築」・渋沢龍彦「幻想の画廊」などに詳しい。御興味あらば是非) これがまた祠の一つも作って満足すればいいのに、オッサンの頭の中は大変なことになっていた。東洋の・西洋の・古代の・近代のあらゆる様式がゴチャゴチャに入り組んだとてつもない宮殿。郵便配達夫ゆえ、外国からの葉書や絵入り雑誌を覗き見るうちに膨れ上がった夢想であろう、とも言う。その不思議な姿は、素人の独力の建築ながら、遥かにガウディを予感した、との評がある。 とにかくその驚くべき、幻視が夢の発酵が無限の想像が、現実となってオートリーブという寒村に存在し、訪れれば、いまだに見ることが出来るのである。ついでに言うと鷹揚なフランスのこと、見るに留まらず、テラスに登って部屋に潜り込んで窓から手を出して写真をとったりも出来るのである。 HauterivesはLyonからクルマで1時間程度なので無茶苦茶に不便な場所ではないが、鉄道駅からは遠い。バスはSt.VallierとRomansから要1時間くらいだが、便数は少ない。Vienne,Tain,Valenceからタクシー30分程度。私たちは今回は、私が「万が一でも雪はイヤっ」と言って(^_^;)レンタカー移動を拒否したので、Vienne(「復興!」で大騒ぎのPyramideに泊まった。まー、フツーの高級ホテルレストランだった)からタクシーで行った。片道250FFくらい。Hauterivesは小さい村だが、「Le Palais Ideal du Facteur Cheval」は結構な観光地になっており、探せば、理想宮饅頭くらいは買えそうだ。 理想宮はそこにあった。静かに、馬鹿馬鹿しく凝り固まった情念の塊として。何故だか、幾ら見ていても見飽きない。次から次へと感情が涌き出してくるような建物なのである。思わず泣きそうになった。ここには創造の原点がある。誇りがある。創作者のハシクレとして、打たれるものがある、と言わざるを得ない。考える所が、あった。 いやぁ、俺ぁ、来て良かっただ~よ。 シュヴァルは理想宮にたくさんの言葉を彫り残している。 「人生の道で、私はただひとりで勇敢に戦った/仕事の中に私は真の栄光を見い出した…」 「この岩を造ることによって私は意思がなにをなしうるかを示そうと思った」 「思い出せ人間よ/お前は塵でしかない/お前の魂だけが不死なのだ」 「夢は現実となる」 そう言ってオッサンは、訳のわからんケッタイな宮殿を残したのである。 |
1994年 6月 ヘルシンキ
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